木走日記

場末の時事評論

今井紀明氏のブログ炎上についての一考察〜「村八分」的な言論封印は健全ではない

今井紀明氏と不肖・木走のアワイ関係

 不肖・木走は、実はインターネット新聞JANJANの市民記者もさせていただいてます。まあ私の場合とっても問題児記者なのですが(JANJAN編集部の皆様、今年に入って一回も記事投稿していません。またある書評を大幅に締め切り遅れでご迷惑掛けております。現在執筆中ですので、今しばらく、今しばらくお待ちください(大汗)←お前はそば屋の出前か)

 私のことなどはともかく、タイトルにある今井紀明氏ですが、読者のみなさんもよくご存知と思いますが、2004年にイラク人質事件でイラクで人質となりその後解放された3人の日本人の中の一人であります。

 で、彼は当時実はインターネット新聞JANJANの市民記者でもありまして、まあ、私と彼は、もちろんお互いに何の面識もないわけでありますが、インターネット新聞JANJANの市民記者繋がりというアワイ(苦笑)関係なのであります。

 もっとも、2004年の事件当時、不肖・木走はJANJANの記者登録はしておりませんでしたし、実はJANJANそのものの存在も知りませんでしたが。

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 で、インターネット新聞JANJANはこちらです。

インターネット新聞JANJAN
http://www.janjan.jp/

 で、例えば当時の今井紀明氏関連のJANJAN記事はこちら。

今井紀明さんが考えること 2004/04/11
http://www.timclark.net/media/70.JanJan/70.JanJan.html

 今日は、そんな今井紀明氏のブログが最近炎上しているという話題について少しまじめに、読者のみなさんと一緒に考えてみたいのです。



●今更ながら思い知るすごいセンシティブ(感情的)な聴衆の反応

 で、今井紀明氏のブログ本家はこちら

今井紀明の日常と考え事
http://blog.livedoor.jp/noriaki_20045/archives/50448438.html

 彼は昨年12月からこのブログを開設していたようですが、最近になり彼及び彼の家族に寄せられた匿名の手紙をネット上で公開いたしました。

向き合いの中から生まれるもの、それは対話
http://www.doblog.com/weblog/myblog/55425?pageno=4

 ここからものすごい数のコメントが浴びせられるようになります。

 まあ、直接上記のコメント欄を御覧いただければと思いますが、有益なコメントも中にはありながら、感情的なコメントが大半であります。

 事実上「炎上」しているわけです。

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 ここで本件に対する私の立ち位置を明言しておく必要があると思われるので述べておきますと、今も変わりませんが、不肖・木走は今井氏達の行動には批判的であります。

 理由の如何に関わらず再三の政府による退避勧告がなされていた事実上戦闘状態の国イラクに、民間の日本人3人が迂闊にも自主的に入国し、なおかつ最も当時治安不安定であったファルージャ地区に潜入を試みて武装テログループに拉致されるとは、今持って当人達の軽率さは責められてしかるべきなのだと思っています。

 ただ、当時の武装グループの要求「3日以内に自衛隊撤退」に対し被害者家族が小泉首相自衛隊撤退を直訴するに当たり、その時の会見での態度・言動が不遜であるとして、その後マスコミ・スクラム状態になり「自己責任論」も飛び出して、当人達の帰国後まで個人批判の対象となってしまったのには、正直違和感を覚えました。

 彼らの行動は確かに軽率のそしりはまぬがれないだろうし、当時の日本政府や国民に物理的・時間的に負荷を負わせたのは事実ではあるのだろうけれど、一部の人たちの、あたかも「非国民」のようなレッテル張りやバッシングには、ついていけなかったのでした。

 それ以降、JANJANにて後追い記事として擁護派のオピニオンが掲載されれば、私はコメントして議論するときは必ず批判派としての立ち位置で彼らの行いを批判して参りましたが、起こした事件に対する批判とは別に、その時の日本社会の一部の人々やメディアのセンシティブな過剰反応に対する違和感が、たえず私の胸の中にはわだかまっていたのでした。

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●あいかわらず「準備不足」で「軽はずみ」な人だが、彼の主旨は評価したい

 今回の彼のブログにおけるコメント欄「炎上」ですが、個人的には二つの感想を持ちました。


■あいかわらず「準備不足」で「軽はずみ」な人

 一つは、今井紀明氏には申し訳ない言い方になるかも知れませんが、あいかわらず「準備不足」で「軽はずみ」な人だなあと言うことです。

 匿名の抗議の手紙をネットで公開することのその反響の大きさは十分に想定できたはずにも関わらず、彼はその公開した理由を最初に説明するのではなく批判のコメントがスクラム状態になったことにより後追いで載せています。

公開した経緯から理由まで
http://www.doblog.com/weblog/myblog/55425/2300036#2300036

 この中で彼は反響の大きさに戸惑いつつ次のように驚いています。

 その前にひとつありますが、この批判の手紙を公開したブログは完成版ではなかったことです。よく「意図がわからない」など言われましたが、このあと批判した方々と話し合ったルポタージュ的なものやなぜ公開しようとしたかをきちんと書く予定でした。それが一気に有名になってしまい、これは僕が予測していたよりもはるかに多くの方がブログにアクセスしてしまったので、対応できませんでした。それに対応する前に多くの批判的なコメントが大量に書かれていましたし、最初から決め付けたれていたことには驚きを隠せませんでした。

 うーん、こんな「準備不足」では、「炎上」もしちゃうのじゃないかなあ・・・

 なんなんだろう、この計画性の無さは・・・

■言論素材としての特に一次ソースとしての価値

 しかしながら、もう一点は、これらの手紙の持つ情報の価値は、素直に評価したいのです。

 あちらのコメント欄をざっと読むと、匿名とはいえ著作権があるから無断で公開するのは問題なのじゃないか、とか、対話を重視するなら書いた本人と直接すべきであり公開するのは卑怯だ、とか色々言われているようです。

 しかし、私は匿名の批判の手紙に著作権があるのか専門家ではないのでわかりませんが、そもそも相手が匿名なのだから「対話の手段」としては皆無であったろうと察します。

 また、このような事件報道の当事者にどのような手紙がよこされるのかを、公開して議論しようと言う彼の主旨は、とても納得できます。

 少なくともこれらの手紙は、言論対象素材としての一次ソース的価値は極めて高いでしょう。

 彼が公開しなければ永遠に私たちの目にはふれることはなかったでしょう。

 彼の提供した価値ある素材をもとに議論し批判的に論説をするならばまだしも、ただの批判がための批判に終始してはもったいないと思います。

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●『人生とんぼ返り』さんの主張に共鳴いたしました

 私が今回このエントリーをした理由は、以下のサイトに大いに触発されたからでした。

人生とんぼ返り
今井紀明氏の手紙公開について

http://naruse.exblog.jp/d2006-02-12

 この中で次のような下りが述べられていました。

 失礼して抜粋して引用させていただきます。

 (前略)

私の知る多くの良質のブロガーは、政治的にに偏ることなく、これを論じる事ができるだろう。少なくとも、今井氏をここで孤立させるのはあまりに理不尽である。
彼は対話というが、これは言論でもある。この意見が、言論が、まともに検討される事もなく、集団ヒステリーに埋もれ殺されていくことを、座視している事は許されるだろうか。
少なくとも、私もここで声を発しているのだ。多くのブロガーと同じように。

我々は『イスラム過激派』ではない。彼と深刻な立場の溝を有しているわけではない。我々が彼と対話するのに、一体何の不都合があるというのか。
そして彼の存在までを侮辱する権利が、いったい誰にあるというのか。

基本的に、私は社会的話題にはあまり触れない。この話題も、私としてはその手の括りに入っている。今まで取上げた時事問題も、他の動機があって触れた書いたまでである。
今回この話題を取上げたのは、当時彼らに批判的だった人間が、今回の彼の行動を支持し、バッシングを非難するとはっきり表明したかったからだ。
そして彼の言う「対話」を、きちんとした形で進めていくことが、ここに必要だと感じているからでもある。

今回私は、彼の行動をはっきり支持する。
彼の提示した物を受け取り、議論はされるべきである。

 是非全文はあちらにてお読みいただければと思います。

 特に、「今回この話題を取上げたのは、当時彼らに批判的だった人間が、今回の彼の行動を支持し、バッシングを非難するとはっきり表明したかったからだ。」の部分に、私としてはとても共鳴するのでありました。

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●「村八分」的な言論封印は健全ではない

 『人生とんぼ返り』さんは、今回の今井紀明氏のブログの「コメント欄炎上」を「集団ヒステリー」と表現されていますが、まったく同感であり、これは平成版「村八分」状態に近い状況なのかも知れません。

村八分

村八分とは、仲間はずれにすること。村の掟や秩序を破った人や家族に対し、村民全部が申し合わせて絶交するもの。村はずし。

村八分の語源・由来

村八分は、江戸時代から行われた習慣である。
村八分の「八分」とは、十分の交際のうち、葬式と火事の際の消火活動の二分以外は付き合わないという意味からとされ、のけ者にすることを「八分する」とも言われていた。
十分のうちの八分は、「冠・婚礼・出産・病気・建築・水害・年忌・旅行」である。
払い除けて信用しない意味の「撥撫(はつむ)」が転じ、「八分」になったとする説もある。

語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/mu/murahachibu.html

 村八分とは、仲間はずれにすること。村の掟や秩序を破った人や家族に対し、村民全部が申し合わせて絶交するもの。村はずし。」であります。

 平成の今に「掟や秩序を破った人や家族」に対する理不尽な圧力「仲間はずれ」があってはいけないと思うのであります。

 今回、彼の提起した内容はひとつの立派な「言論」なのであり、時間をかけて議論をつくしていいはずです。

 少なくとも彼にも言論する権利は認めるべきでしょう。

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 彼は更新をもう止めるとブログで書き込んでいますが、これはすくなくとも健全な状況とは断じて言えません。

 彼の言論を封印してしまうようなコメントスクラムな感情的な対応は、極めて残念なことだと思います。

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 ぜひ、読者のみなさまのこの問題に対するご意見をうかがいたいです。



(木走まさみず)