木走日記

場末の時事評論

『「ナヌムの家」で慰安婦問題と向き合う』を考察する

今日の産経新聞から。

従軍慰安婦の記述は不適 歴史教科書で文科政務官

 下村博文文部科学政務官は31日の参院文教科学委員会で、従軍慰安婦に関する教科書の記述について「子どもたちの成育、発達段階を考えると、中学生の歴史教科書に慰安婦という言葉を入れることは適切ではない」と述べ、中学校の教科書にはふさわしくないとの考えを示した。

 下村氏は、中山成彬文科相が昨年11月、「従軍慰安婦や強制連行という言葉が(教科書から)減ってきてよかった」と述べたことに関連、「慰安婦は当時存在し、それは否定しない」としつつも「強制連行や従軍慰安婦という言葉は当時、使われていない」と指摘。「使われていない言葉を教科書に使うことは適切でない。その意味で減ってきてよかったという視点から(ホームページなどで文科相発言を)支持した」と述べた。

 また、従軍慰安婦などの言葉について「マルクス・レーニン主義(者が使う)用語として、1960年代になって学説として出た」と強調した。民主党の神本美恵子氏への答弁。(共同)

産経新聞(03/31 14:52)
http://www.sankei.co.jp/news/050331/sei082.htm

 従軍慰安婦という言葉がマルクス・レーニン主義者が使う用語として、1960年代になって学説として出たことは知りませんでしたが、おそらくここの読者のみなさまの考えも二分されるのだろうやっかいな問題を今日は取り上げてみます。

 制度としての従軍慰安婦は間違いなくあったのだろうと考えていますが、現在の私のこの問題に対するスタンスは無色です。

 一部リベラル派が主張している大半が強制的連行に近い形(そうなるとこれは明らかに犯罪行為的色彩を帯びてきます)で女性達が集められたのかは、その割合が何%ぐらいであったのかが実証されていないのではないかと思っています。
 また、一部保守派が主張している当時の日本軍は直接これに関与しておらず、朝鮮人斡旋業者が本人は知らぬ間に親に金を渡し、本人を連行(つまり、本人としては強制連行に近い経験をした)したケースはあっても、大半が本人の意思のもとに募集したというのも、やはり割合が何%であったのかが実証されていないのではないかと思っています。

 今日ここで議論したいのは、一部従軍慰安婦擁護派と一部従軍慰安婦否定派の議論のあり方についてです。

●JANJANのある記事をめぐって

 インターネット新聞JANJANにおいて、今、ある従軍慰安婦関連記事が議論になっています。

「ナヌムの家」で慰安婦問題と向き合う(上) 2005/03/25
http://www.janjan.jp/world/0503/0503244913/1.php
「ナヌムの家」で慰安婦問題と向き合う(下) 2005/03/31
http://www.janjan.jp/world/0503/0503295134/1.php

 これは、ある韓国の大学に留学中の日本人女性が、「ナヌムの家」という元慰安婦であったおばあさん達が住んでいる施設で体験した、体験レポートを記事にしたものです。

 記事の内容、記事に対する熱い討論は、是非JANJANを御覧いただくとして、いつもながら、この記事をめぐるJANJAN上の討論は、虚しいというか悲しい水かけ論にまたしても終始しています。 反対派は、記事の持つルポとしての価値などいっさい評価せず、慰安婦の話がいかに信憑性がないか、事例を列挙しながら、記事を批判しています。また、リベラルな賛成派は、実証性も問わず盲目的ともいえる記事賛美を繰り返します。

 自省・自戒を含めてですが、なぜ朝鮮半島のことになると日本人はこうも冷静さを失うのでしょうか?
 もし、この記事がアメリカ先住民の虐殺資料館体験ルポだったとしたら、おそらくもっと冷静な議論がされているのでしょう。

●私はルポとして評価したい

 記事と討論に関する木走の個人的意見を述べたいと思います。

 まず、木走はこのルポルタージュ的記事を高く評価しています。
 高く評価している理由は、記者本人が現場に行き経験したことを記事にしていることにつきます。この記事自身が一次ソース(情報源)であり、新聞やテレビ・インターネットで知ったソースを再発信している、2次ソースや3次ソースの駄文記事ではないことです。
 これはメディアリテラシー的にいわせていただくと、その内容の賛否は、読者の判断にゆだねられるとして、読者の知見を広めるという意味で、価値ある情報なのです。

 メディア(記事)は、事実をアウディエンス(聴衆・読者)に対して媒介することが目的であります。その原点のところで、このルポはしっかり役割を果たしているのです。

 もっとも、細かく見ればもちろん、木走的にも不満もあります。

 日本人拉致事件とリンクしていないとか、ではどうすべきかという具体的提案がないとか、実証性の問題がいっさいふれられていない(そもそもおばあさんたちの話は本当に実話なのか)とか、あげればキリはないでしょう。

 以下は、今日、JANJAN誌上で、私がこの記事に対し書いたコメントです。

[7212] すばらしい記事です。
名前:木走まさみず
日時:2005/03/31 13:05
 すばらしいレポートでした。

 土肥郁美記者という一人の日本人女性が「ナヌムの家」を通して多くのことを学び悩みそして心の内なる葛藤を乗り越えて、自己の中でひとつの「行動原理」を獲得していく体験レポートとして、秀逸であります。
 私は残念ながら「ナヌムの家」にいったことはございませんが、機会があれば是非向学のためにもうかがいたいと思いました。

 さて、私は深く考えざるを得ないのは、土肥郁美記者の記事の結語です。

記事より引用====================
 今も、世界では戦争が行われている。ハルモニたちのような女性がどこかで、助けを求めているかもしれない。私の存在は、世界的な規模で見たら、本当にアリの大きさにも満たない、小さな小さな存在である。しかし、そのアリの集団が国家を形成している。アリも集まれば、大きな力になれると私は信じている。
======================引用終了

 戦争の悲惨さを訴える反戦活動、あるいは戦地で犠牲になる弱者達(女性だけでなく子供や老人も含めてよいでしょう)に対する支援活動、それらに微力ながらも参加していきたいという、土肥記者の心情がよく表れています。

 しかし、ここでの表現をお借りすれば、「アリも集まれば、大きな力になれる」のは事実として、いかにして賛同する「アリ」を増やしていくのか、その方法論が描かれていません。

 自分の信じてることを大きな声で、一人でも多くの人々に叫ぶことによって、心ある「アリ」達がある程度集まってくれることもあるでしょう。

 しかし、たとえば土肥記者のレポートの(上)のご意見版にも展開された議論を見ましても、唾を飛ばして自分の信じることを叫んでも、反発を買うケースが多いのです。ここは方法論を考察しなければなりません。

 『大義の支持者』と『真理の探究者』という言葉があります。

 人はある出来事に対し、『大義の支持者』に陥ると、自らの意見に対し、信じるがゆえに思考を停止してしまい、その実証性を検証しなくなります。
 誤解を恐れずいえば、多くの宗教の信者がそれにあたるのでしょう。それを否定するわけではないのですが、その宗教を信じない人々と冷静に実証的に話し合うことが難しいのも事実です。

 いっぽう、『真理の探究者』は、物事の実証性を重んじます。本当にあったことは何だったのか、自分が信じていてそうあってほしいと考えている事実も、あるいはその事実が実証されると自分の今信じていることが否定される事実も、『真理の探究者』の前では、等しく平等なのです。

 一人の「アリ」が多くの賛同者を増やしていくためのは、その内なる熱情・パッショとともに、冷静なる『真理の探究者』の姿勢が絶えず必要なのではないでしょうか?

 この記事を拝読しつつ、私はそんなことを考えていました。
 いろいろな意味ですばらしい記事をありがとうございました。

http://www.janjan.jp/world/0503/0503295134/1.php

 何やら、私が書き込んだ後も、JANJANの左右論客達が揉めているようです。(苦笑)

 読者のみなさまのご意見をうかがいたいです。



 (木走まさみず)

<関連テキスト>

●『大義の支持者』と『真理の探究者』
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050222
朝鮮半島歴史問題をメディアリテラシーしてみましょう。
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050227