木走日記

場末の時事評論

小沢一郎「破壊神(シヴァ)」仮説

kibashiri2010-08-22




 比較的時間がとれる日曜日に、じっくり考えたい時事テーマを[サンデー放談]と題して不定期に連載していくシリーズの第四弾であります。

 お時間のある読者と話題性のあるテーマをともに考察する機会になればと思っています。

 今回のテーマは「小沢一郎破壊神(シヴァ)仮説」(文中敬称略)であります。

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 ヒンドゥの教えによればシヴァとは破壊を司る神のことである。

 世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。

 マハーカーラ(大いなる暗黒)とも呼ばれ、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れるという。

 シヴァは破壊の限りを尽くす。

 シヴァによって破壊された世界は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌによって新たな秩序を創造するという。

 しかしシヴァは創造したり維持したりはしない。

 シヴァの役割は破壊そのものなのだから。

 破壊神なのだから。

 ・・・

 小沢一郎は昭和44年(1969年)、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで初当選する。

 以来41年間、都合14回の選挙を勝ち抜くことになる、一度も落選の経験はない、14回中12回がトップ当選である。

 初当選のときの自民党幹事長が田中角栄である、以後木曜クラブ田中派)に所属するが、5歳で死んだ長男と同い年であった小沢を田中は特に気に入り、政治のノウハウを徹底的に直伝していく。

 「選挙の小沢」が頭角を現すのは昭和57年自民党総務局長に就任した40歳からである。

 翌年の衆議院京都2区の2人欠員による補欠選挙で、小沢は谷垣禎一野中広務の2人擁立を党内の反対論を押し切り強行する、結果は見事な票配分で両名とも当選、ときの中曽根首相をも驚かすこととなる。

 昭和60年に第2次中曽根内閣の改造内閣自治大臣国家公安委員長として初入閣する、43歳である。小沢の長い政治家歴の中で実は大臣経験はこのときのただ一回限りである。

 自治大臣となったこの年、その後の25年に及ぶ数々の小沢の政界秩序破壊の最初の政争場面がおとずれる。

 小沢の所属する田中派木曜クラブに謀反が起こる、反旗を翻した竹下登金丸信らと共に小沢は派内勉強会「創政会」を結成、のちに経世会竹下派)として独立する。

 竹下内閣では官房副長官に就任。

 続く海部俊樹内閣では金丸の推薦により47歳の若さで党幹事長に就任。

 政治資金において「豪腕の小沢」が名を馳せるのもこのころである。

 リクルート事件後初の総選挙で苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会経団連)傘下の企業から選挙資金実に300億円を集めることに成功、首尾良く勝利をおさめる。

 党内の反発を招き、海部が首相辞任に追い込まれた(海部おろし)とき、出馬表明していた宮沢、渡辺美智雄三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談したいわゆる「小沢面接」は、自民党時代の彼の権勢の絶頂期として長く語られることになる。

 平成4年(1992年)、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した。

 蛇足だが、田中、金丸と政界で師事する政治家が次々と逮捕されるのをそばで見てきた小沢の検察嫌いはこのころからで筋金入りである、また金丸の裁判をすべて傍聴し検察の手法を徹底的に学習する。

 派閥の後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、一方竹下、橋本龍太郎梶山静六ら派閥主流派は竹下直系の小渕恵三を推し、両者は鋭く対立する。

 この権力闘争敗れた小沢は2回目の政界秩序破壊を断行する、すなわち羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、竹下派は事実上真二つに分裂する。

 羽田派は反主流派に転落するが、これに対し小沢は主流派を「守旧派」自らを「改革派」と呼び出し、政治改革の主張を全面に訴え始める。

 その後の小沢に常につきまとうことになるのだが、小沢が秩序を破壊するときにはまず権力党争が先にあり、その破壊活動を支える政策・理論は必ず後付けになるパターンが出来上がる。

 彼にとり「政策」より「政局」なのである。

 平成5年(1993年)、野党の出した宮沢内閣不信任案に、小沢派ら自民党議員30名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決、宮沢内閣は衆議院解散、小沢は遂に自民党を離党、新生党を結成し3回目の政界秩序破壊を断行する。

 党首には羽田を立て、小沢は党代表幹事(幹事長相当)に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿を見せず「闇の帝王」ぶりをジャナーリズムから批判される。

 同じ年の第40回衆院選において自民党過半数割れし、新生党日本新党新党さきがけの3新党は躍進、宮沢内閣は総辞職し、小沢は日本新党代表の細川護煕接触、8党派連立の非自民細川内閣が成立した。

 細川政権下でも小沢は権力の二重構造を構築する、すなわち内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、連立政権の実権を強引に自らが握ることに成功する、公明党書記長の市川雄一との「一一ライン」が出来上がる。

 平成6年(1994年)、小沢は大蔵事務次官斎藤次郎とともに消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定、2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し世論の激しい反発を受ける。

 社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化、武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。

 細川の首相辞任を受けて、小沢はなんと自民党渡辺美智雄擁立を企てるが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。

 連立与党は羽田の後継首班に合意、しかし日本新党民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となる。

 羽田内閣は内閣総辞職し、在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わることになる。

 羽田の後継として、自民党首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示し、小沢は決選投票で261対214で村山に敗れ、政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。

 同年9月、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成され、小沢を中心に新・新党結成が準備され、同12月に新進党が結成。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任する。

 翌年の党首選で長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出されるが、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。

 平成8年(1996年)第41回衆院選が行われ、新進党は小沢党首のもと改選前の160議席を4議席減らして、事実上敗北した。
 選挙直後開票中にも関わらず深夜になるまで党本部に姿を見せずまたしても雲隠れするなど党首としてあるまじき態度を取った事も強い批判を浴びることになる。

 選挙後、離党者が続出、羽田は奥田敬和岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。

 翌平成9年、小沢は自民党亀井静香らと電撃的に提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切る、こうして公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速。

 党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。

 新進党内は混乱に陥り、完全に空中分解、平成10年1月、小沢は自由党を結成、自ら党首に就任した。

 そして平成11年(1999年)1月、正式に自自連立政権が成立し、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。

 同年7月、公明党が政権に入り自自公連立政権が成立すると政権内部での自由党の存在感は必然的に低下、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求する。

 しかし自民党内の秩序破壊者小沢に対するアレルギーは根強く結果、「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし、小沢は結局連立から離脱する道を選ぶ。

 ここで自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成、真二つに分裂する。

 小沢と袂を分かった保守党は政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、小沢はこれを拒否。

 保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。

 そして平成14年(2002年)小沢は鳩山由紀夫民主党代表からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。

 鳩山辞任後に民主党代表に選出された菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意、翌平成15年、自由党民主党と正式に合併。

 自由党民主党の合併の直前に、自由党から13億6816万円の寄付が小沢個人の政治団体改革国民会議に対して行われた。

 平成18年前原が「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、直後の民主党代表選で小沢は菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。

 両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べる。

 翌平成19年、小沢は自民党福田総理大臣と会談し、大連立構想が持ち上がるが、民主党内の反対を受け連立を拒否。

 平成21年、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任、しかし8月の総選挙では民主党が圧勝ついに政権交代を実現し、鳩山民主党政権が誕生、小沢は幹事長に就任する。

 平成22年6月、辞意を表明した鳩山に共に幹事長を辞するよう促され、幹事長を辞任する。

 ・・・

 過去25年、田中派を消滅させ経世会竹下派)を起こす、竹下派を分裂させ改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げする、自民党を離党し新生党を結成する、新生党を解散し日本新党民社党などと社会党を除く形で新進党を結成する、新進党を解散し自由党を結成する、自由党を解散し民主党と合流する、これらの小沢一郎の行動の軌跡はすさまじい。

 彼は所属組織をあるときは分裂させ、あるときは解散させ、徹底的に破壊してきたのだが、彼の生んだ新しい組織もまたすべて「破壊」されている、「創造」または「維持」はひとつもされてこなかった、新生党をみよ、新進党をみよ、自由党をみよ、秩序を「破壊」するために利用はされたが、これらの政党はひとつとして「維持」できていない、これらの政党もことごとく「破壊」されてきたのだ。

 小沢一郎はまさに破壊神シヴァである。

 秩序を破壊し仲間すらも破壊する。

 彼は断じて創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌにはなりえてはいない。

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 日本の政界のどうしようもない閉塞状況の中で、今、破壊神が降臨するときを向かえようとしているのか。

 9月の民主党代表選に向けてここに来て民主党内部からあるいは小沢一郎支持者から小沢一郎待望論がわき出している。

 菅政権のあまりのふがいなさも手伝い、小沢支持者以外からも、たとえばみんなの党の渡辺代表などが「小沢の傀儡(かいらい)候補」が立つぐらいならば正々堂々小沢一郎本人が立候補ししっかりとした政策論争をすべきという意見も出てきている。

 当然ながら与党第一党の民主党の代表選はそのままこの国の政治の最高責任者である内閣総理大臣の選出を意味する。

 はたして小沢一郎擁立は実現するのだろうか。

 そして代表選を勝利し小沢一郎内閣総理大臣としてこの国の政治の頂点に立つのだろうか。

 今、それも良いかも知れない、と真面目に逡巡している私がいる。

 せっかくの政権交代に露呈した鳩山・菅と続く民主党政権の体たらくに国民は溜息をついている。

 かといって反省なき自民党復権させる選択肢も何も進歩がない、打開策がない。

 ここまで救いようのない閉塞感漂う政治状況をいったんクラッシュするのを願うならば、ここは破壊神小沢の降臨を願っても良いだろう。

 ただし怒れる神が破壊するのは、小沢支持者が盲信している悪しき政官既得権益とは限らない。

 小沢一郎内閣総理大臣となったとき、破壊されるのは、政官癒着の悪しき構造なのか、あるいは自由民主党なのか、いやもしかしたら民主党自体かもしれない。

 それともこの国そのものが破壊されてしまうのか、今は誰にもそれはわからない。

 しかし彼の破壊神としての足跡その歴史を振り返ることは無駄ではない。

 小沢一郎が率いた組織はすべて破壊されてきた事実がそこにはある。

 小沢一郎は破壊神シヴァである。



(木走まさみず)



<サンデー放談過去ログ>
■第一回2010-03-21 アングロサクソンは「食文化」がないから反捕鯨に走る?
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100321
■第二回2010-05-16 無党派層にとって実は選挙は特異点
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100321
■第三回2010-06-20ホモ・サピエンスのDNAは子育てを母親だけに押しつけることを許していない
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100620