この絶望的な時代錯誤感、まるで「進歩的文化人」のような大晦日朝日新聞社説
「進歩的文化人」、明確な定義はありませんが、戦後、日本の論壇を一時独占した、左翼の学者や作家、芸術家などを指した呼称であります。
「進歩」の先にソ連や中国の社会主義国を想定していたため、日本社会党又は日本共産党の主張を擁護しつつ、反自民党・反保守派の立ち位置をとり、護憲平和、非武装中立、戦後民主主義の擁護などを唱えたのでした。
その論説は、岩波書店の世界や朝日新聞社を中心に、日本の左派論壇に掲載され、進歩的文化人はしばしば「朝日文化人」などとも呼称されていました。
「進歩的文化人」の一人として「知の巨人」評論家・加藤周一(2008年、89歳で死去)がおりました。
評論家・加藤周一をリベラル派はいかに評価しているか、日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」の昨年のコラム記事より。
きょうの潮流
今月19日は「九条の会」の呼びかけ人の一人、評論家・加藤周一の生誕100年に当たりました。東京と京都で記念の国際シンポジウムが開かれ、カナダ、フランス、ドイツ、中国、韓国の研究者も交えて、活発な議論が行われました▼シンポでは「加藤周一はマルクス主義者ではなかったが、マルクスをよく読んでいた」という指摘がありました。思い出したのは、ソ連が崩壊した時の加藤周一のコラム「夕陽妄語」の一節です▼「社会主義が死んだという大合唱は、議論としてまことに粗雑である」と戒め、マルクスの社会分析が現代にも通用することを示しました。「マルクス主義は死んだのではなく、常識になったのである」。社会主義崩壊論の嵐のなか、この言葉にどれほど励まされたか知れません▼「私の民主主義の定義は、甚(はなは)だ簡単である。強きを挫(くじ)き、弱きを援(たす)く」と書いたこともあります。富裕な医者の家に生まれながら、弱い立場の人々への思いやりを忘れませんでした▼晩年の加藤は「九条の会」を結成し、憲法擁護を訴えて全国をまわりました。加藤は書いています。「戦争に反対するのは、科学者としての認識の問題ではなく、人間としての価値の問題である」▼ベルリン自由大学のイルメラ・日地谷=キルシュネライトさんはシンポでこう語りました。「世界の大きな変動の中で、加藤が強調した理想やデモクラシーのような価値なしに我々はやっていけない。加藤は真に国際的なアピール力を持った自立した思想家だった」
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-30/2019093001_05_0.html
さて、共産党機関紙から「加藤周一はマルクス主義者ではなかったが、マルクスをよく読んでいた」と評価を受け、さらに「「九条の会」を結成し、憲法擁護を訴えて全国をまわり」護憲運動の中心的文化人であったと評価しています。
赤旗コラムは「加藤は真に国際的なアピール力を持った自立した思想家だった」と結ばれていますが、共産党機関紙からこれだけ評価を受けるということは、逆にいえば彼の論説は共産主義・社会主義への親和性がそれだけ強烈だったわけです。
ソ連崩壊のとき、「マルクス主義は死んだのではなく、常識になったのである」と共産主義を擁護した加藤ですが、共産主義諸国に対するこの偏向した擁護は、加藤の論説に多くの矛盾をもたらします、例えば中国における人権問題です。
古本虫太郎氏のブログより失礼して当該箇所を引用・紹介。
そのほかの日付のコラム(96・6・19)ではこうも言っていた。
「今日人のいう『中国の脅威』においてをや。中国の努力は今あきらかに国内の経済問題――それは十分に困難だ――と、外部からの内政干渉を排除することに向けれらている。中国からみてのティベットと台湾は国内問題である。日本は国外問題である。その軍事力に至っては、かつてのソ連のそれに及ばざること遠いだろう。『中国の脅威』を前提として日本の対外政策を組みたてるのは、非現実的である、と私は考える」
「情報の鎖国状態は、もはや今日の北京にはない」と1994年に妄語した加藤周一は「知の虚人」だったのか? より引用
http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-2531.html
チベット問題を中国の国内問題だから内政干渉すべきでないとの主張は、中国共産党政府の主張そのものであり、『中国の脅威』は非現実的であるとの彼の論は、当時の多くの進歩的文化人がいかに無分別に親ソ連・親中国であったかのひとつの好事例であります。
さて時は流れて令和2年であります。
ここ20年の論壇における左派の退潮は、「進歩的文化人」という言葉をほぼ死語としつつあります様相ですが、しかしいまだその偏向した論説を活用するメディアがあります。
今年大晦日の最後の朝日新聞社説は、普段2本掲げる社説を1本にまとめた大作であります。
(社説)「1強」の終わり 危機に立ちすくむ強権政治
2020年12月31日 5時00分
https://www.asahi.com/articles/DA3S14749984.html?iref=pc_rensai_long_16_article
安倍・菅流民主主義を「危機に立ちすくむ強権政治」と社説タイトルでレッテルを張り、戦前回帰の「国家主権」であると批判します。
国家の機関なら四の五の言わずに国家権力に従え、というのが安倍・菅流民主主義だ。国民主権ならぬ、国家先にありき、戦前回帰の「国家主権」とでも言うべきか。
ここで評論家・加藤周一の民主主義の定義を持ち出します。
「現在の政治に対する批判的な意見がたくさんあること」
評論家の加藤周一は民主主義をそう定義する。(「いま考えなければならないこと」)
社説は、「まさに「加藤流」民主主義の力の見せどころだが、安倍、菅両氏は議論を嫌う」と断罪します。
試行錯誤はやむを得まい。限られた時間のなかで、少数意見をも重視する議論によって合意を探る。間違えれば柔軟に修正する。まさに「加藤流」民主主義の力の見せどころだが、安倍、菅両氏は議論を嫌う。
そして菅政権を「批判も意見も届かない裸の王様になっ」ている、「強権政治の弊害と限界が見て取れる」と言い切ります。
最長内閣を裏方として仕切った菅氏。その強面(こわもて)が表舞台に立ったいま、「物言えば唇寒し」の空気を政官界に広げ、批判も意見も届かない裸の王様になってはいないか。強権政治の弊害と限界が見て取れる。
朝日社説は加藤周一が主張する「批判的な意見」を重視し、「民主政治の基本原則を再起動させ」よ、と結ばれています。
「ぼくらの暮し」を第一に、「批判的な意見」にこそ耳を。
国民主権、権力分立、議会中心主義、法治主義など民主政治の基本原則を再起動させる。
コロナ禍を転換の機会としたい。菅内閣発足3カ月半。いまならまだ、カジは切れる。
・・・
令和2年大晦日の朝日新聞社説は、「現在の政治に対する批判的な意見がたくさんあること」を理想の民主主義と唱える評論家・加藤周一の論を利用して、安倍・菅流民主主義は危機に立ちすくむ強権政治であると批判しています。
批判がとどかない「はだかの王様」、危機に立ちすくむ「強権政治」、社会の木鐸を自称するメディアの社説とはおもえない過激な修辞(レトリック)が、繰り出されています。
しかし、社説全体を覆い尽くす視野の狭いこの断定文には辟易してしまいます。
そうこの過激な修辞(レトリック)の連発、これはその昔の学生運動のそれを彷彿とさせるのです。
かつての反米学生運動のような全能感を伴う権力批判、どうにもかぐわしく醸し出されるこの知的レトロ感・・・
この絶望的な時代錯誤感、さすが朝日新聞社説と申しましょうか。
今回は本年最後の朝日新聞社説を取り上げてみました。
(木走まさみず)