木走日記

場末の時事評論

元号制は支持すれど〜免許証はせめて西暦併記していただきたい

さて平成という時代も4月30日まで、残すところひと月ちょっとなってまいりました。

21日付け朝日新聞社説は元号に関して、極めて朝日らしい考察をしていて興味深いです。

(社説)「改元」を考える 時はだれのものなのか
https://www.asahi.com/articles/DA3S13942702.html?iref=editorial_backnumber

 社説は、冒頭から「「平成」といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか」と大上段に構えた問題提起で始まります。

 朝日新聞を含む多くのメディアは「平成最後」や「平成30年間」といった表現をよく使っている。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、と感じる人も少なくないだろう。

 でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。「平成」といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。

 そもそも時とはいったい何なのか。誰かが時代を決める、あるいは、ある歳月に呼び名が付けられることを、どう受け止めればいいのだろうか。

旧ソ連強制収容所には、時計が無かった」ことを例示しながら「歴史を振り返れば、多くの権力は、時を「統治の道具」として利用してきた」と説明します。

 ■統治の道具だった

 スターリン時代の旧ソ連強制収容所には、時計が無かったそうだ。

 ロシアのノーベル賞作家ソルジェニーツィンが、かつてそう書いている。理由はといえば、「時間は囚人のかわりにお上(かみ)が承知しているから」だと。

 囚人は収容所のなかで、今が何時かを知るすべはない。「作業を始める時間だ」「食事を終える時間だ」。懲罰的な意味合いも含め、時間は収容所側が一方的に管理するものだった。

 歴史を振り返れば、多くの権力は、時を「統治の道具」として利用してきた。

日本の元号も「皇帝が時を支配する」とした中国の思想に由来すると説明を続けます。

 日本の元号も、「皇帝が時を支配する」とした中国の思想に倣ったものである。

 前漢(紀元前206年~8年)の武帝が、時に元号という名前を付けることを始めた。皇帝は元号を決め、人々がそれを使うことには服属の意味が込められた。一部の周辺国が倣い、日本では「大化」の建元が行われた。

日本の元号が独特なのは「一代の天皇に一つの元号という「一世一元」の仕組み」にあるとし、作家、渡辺清の「時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇支配下におかれた」との発言を紹介します。

 「天皇の死によって時間が区切られる。時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇支配下におかれたということになる」(『私の天皇観』)

朝日社説は、「元号という日本独自の時の呼び方があってもいい」が、「時を過ごし、刻む自由はいつも、自分だけのもの」であると結ばれています。

 もちろん元号という日本独自の時の呼び方があってもいい。ただ同時に、多種多様な時の流れを心得る、しなやかで複眼的な思考を大切にしたい。

 時を過ごし、刻む自由はいつも、自分だけのものだから。

この朝日新聞社説は典型的な左派の元号観が現出している点で興味深いです。

天皇という一個人の人生で「一世一元」の仕組みにより元号が変わっていく、そのような「時の支配」から自らは束縛されたくない、自由でありたいという、彼ら左派の願望はよく理解できます。

そもそも左派の人と議論していると、彼らは「激動の昭和の時代」とか「災害大き平成時代」とか、元号による時代分割を嫌います、「そんなの意味ないでしょ、たかだがときの天皇の寿命による意味の無い区分けに過ぎない」と、いいたげです。

天皇制そのものも否定的な人が多い左派の人々にとって、「元号」は上記朝日新聞社説が指摘しているように 「皇帝が時を支配する」「統治の道具」という側面を強く感じるようです。

・・・

さて私は元号制度を肯定します。

しかしその運用には強く不満を持っています。

3月生まれの私は2019年の今月、免許の更新でありました。

免許区分が「優良」である私は5年更新、2024までの新しい免許を更新しました。

更新した私の免許がこちら。

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※『木走日記』が個人情報を伏せて撮影

「平成36年4月まで有効」って・・・(~_~;)

平成来月で終わるんですけど・・・

こうして私は日本中にいるであろう多くの同志(?)とともに、今後5年間終了した「平成」の元号を掲げた免許証を携帯する義務を有したのであります。

免許証、せめて西暦併記していただきたいのです。

ふう



(木走まさみず)