木走日記

場末の時事評論

我々の理解を超えた精神病理的異常心理が出現しているコラム

 韓国経済新聞社イ・ハクヨン論説室長のコラムが25日付けで中央日報電子版に載っております。

韓経:【コラム】美しい復讐、真の克日の道
2018年01月25日10時46分
[ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版] comment124 sharemixi
http://japanese.joins.com/article/905/237905.html?servcode=100§code=140

 未読の読者はぜひリンク先で直接お読みください、いろいろな意味で一読の価値ありです。

 お時間のない読者のために当ブログで要約いたしましょう。

 コラムは「美しい復讐、真の克日の道」のタイトル通り、日本への真の復讐はどうあるべきか、それを過去の偉人たちの名言から探します。

「あなたの成功に対する対価はあなたを無視してきた人たちが支払う」(ナンシー・アスター

 そして過去のユダヤ人や哲学者の言葉から「復讐の対象よりも幸せになること」が最高の復讐であると論じていきます。

「立派な生き方をせよ。それが最大の復讐だ」(タルムード)

「最大の復讐は復讐の対象よりも幸せになることだ」(イマヌエル・カント

 また、復讐は「同じ形で仕返しをするのは上策にならない」とし、「たとえ犬を殺したとて、咬まれた傷は治らない」とまるで日本を犬扱いです。

非常に悔しいことがあった時、ひたすら憎悪して恨んだり、同じ形で仕返しをするのは上策にならない。こうした命題を銘記させる語録も少なくない。

「たとえ犬を殺したとて、咬まれた傷は治らない」(エイブラハム・リンカーン

「怒りとは酸である。注ぐ相手より蓄える器をより侵す」(マーク・トウェイン

 チェ・ジンソク西江大哲学科教授は、われわれの日本への復讐は「路地でいやしく語られる水準の復讐をいうのではない」と激を飛ばしています。

「我々は壬辰倭乱を屈辱的に感じただけで、それを返そうとする長期的かつ緻密な準備がなかった。路地でいやしく語られる水準の復讐をいうのではない。復讐は克服であり自己回復の必須の過程だ」(チェ・ジンソク西江大哲学科教授)

 「少女が日本軍人の慰安婦として恥辱を受け、男たちが兵士や炭鉱の鉱夫として連行された」のは大きな屈辱だったとします。

 朝鮮は約300年後、さらに大きな屈辱を味わった。日本に国権を奪われて植民地になった。この地の多くの少女が日本軍人の慰安婦として恥辱を受け、男たちが兵士や炭鉱の鉱夫として連行されたのは、この人たちを守る国がなかったからだった。

 「世界市場で日本企業を圧倒しているサムスン電子とLGエレクトロニクスの製品」のように「韓国社会のより多くの分野で日本が認めざるを得ない力を蓄積していくこと」が 「真の復讐」であり、真の克日であるとコラムは結ばれています。

 こうした時に思い浮かぶのが「真の復讐」だ。壬辰倭乱後の朝鮮とは違い、日本の植民残滓を踏んで建国した大韓民国は、少なくない分野で日本と肩を並べたり上回る成果を出した。世界市場で日本企業を圧倒しているサムスン電子とLGエレクトロニクスの製品がそうであり、日本の真ん中で注目を集めている飲食品、K−POP、化粧品など韓流文化商品がそうだ。まだ不足しているが、真の克日の道を確認させる。韓国社会のより多くの分野で日本が認めざるを得ない力を蓄積していくことが強く求められる。

 ・・・

 ふう。

 いかがでしょうか、このコラム。

 経済力で日本を抜くべく努力していこう、そして日本より幸せになろう、という目標設定はいいのです。

 ぜひがんばっていただきたい、しかしそのような建設的な目標設定が「美しい復讐、真の克日の道」との呪詛的な修辞されてしまうところに、正直深刻な韓国の精神的病理を感じてしまって、ドン引きしてしまうわけです。

 なんと申しましょうか、この呪詛(じゅそ)に満ち満ちた小文が韓国ナンバーワン発行部数経済紙の論説室長の時事コラムであるという事実に悲しみと哀れみを抱きつつ、しかしまあ、このコラムはまさに朝鮮民族にとっての「恨(ハン)の文化」が見事に具現化しているとも言えます。

 強烈な被害者意識の中で、史実すべてを他者責任とし自己正当化、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀やあこがれや妬みをミックスした情念がほとばしっております。

 そこには自らの民族に対する自己批判や反省などはなく、あるのは日本に対する批判と日本に対する最高の復讐をする、その一念のみであります。

 さすがです、この21世紀の時代に、少なくとも戦争状態でもない民主主義国同士の間なのに、相手国日本に対して「たとえ犬を殺したとて、咬まれた傷は治らない」と犬扱いで論じることもいとわない、そんな日本に「最大の復讐」をするにはどうすればいいかと、堂々と真剣に新聞メディアで論じているのです。

 理屈の範疇ではない、我々の理解を超えた熱情(パッショ)が韓国国民には宿っているのでありましょう。

 ここには、我々の理解を超えた韓国の精神病理的異常心理が出現しているのであります。

 しかし、いずれにしても「美しい復讐」という形容は新聞コラムのタイトルにはなじみません、平気でそれを論じることができる、つまり自身の異常さを感じない、この記者もそしてその読者もいかがなものなのでしょうか。

 この隣国とは、そろそろ日本も真剣に付き合い方を考えるべきではないでしょうか。

 読者の皆さん、そうは思いませんか。



(木走まさみず)