木走日記

場末の時事評論

「客観報道できないマスメディア」を20日付け紙面で徹底検証〜加熱する朝日と沈黙する読売

 今、この国のマスメディアにおいて、ある種の事案に対してひときわ顕著な報道傾向が見られます。

 今回は当ブログとして、この興味深い報道傾向について、メディアリテラシー論的に読者と共に考えてみたいと思います。

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 そもそも『報道』とは何か。

 報道とは、出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論活動のひとつであります。

 報道を行う主体を報道機関、報道の媒体をメディアと呼び、中でも影響力が無視できない大規模なメディアをマスメディアと呼んでいます。

 そしてメディアが伝達する「報道」を受ける側が、オーディエンス(一般大衆・読者・聴視者)すなわち我々市民であります。

 そもそもメディアが報じる「報道」は、客観的という意味で本質的な限界性を有していることは重要です。

 あるメディアが伝える「報道(記事)」は、事実そのものでは決してなく「(事実を元に構成され、コード化された表現」(representation)ということだといえます。

 新聞記事であれ、TVニュースの原稿であれ、そこでは事実に基づき、メディア側が事実の側面を、与えられた制限(例えば字数制限やTVなどの時間制限)内で、事実を記号化(言語化)しかつ整理し「加工」を施し、オーディエンスに伝えることになります。

 つまり「記事」は現実を反映しているのではなく、メディアの手によって、現実を「再構成」し、提示しているわけです。

 現実を「再構成」する作業の過程において、誤謬性が必ず発生します。その出来事に対し、意図的でないにせよ、選択した事実だけ提供すること、記事の中で用いる言語の定義(しばしば曖昧であったりする)、事実の説明に、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)、もちろんそれに事実そのものを誤報したりする可能性もあるわけです。

 従って、ある「事実」の「報道(記事)」を伝えられた、我々オーディエンスは、その記事の内容を疑うことなく「事実」と無防備に受け入れてしまうのではなく、メディアをリテラシーする、メディアの報道内容を、できうる限り社会的文脈でクリティカルに分析し評価する能力が求められるのです。

 我々はメディア報道を鵜呑みにせず、メディア・リテラシー(能力)を身に付ける必要があるわけです。

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 今日、日本では、ある種の「事実」報道について、残念ながら、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)報道が顕著なのであります。
 
 「報道価値」("news value")という言葉があります。

 どの事案が報道価値を有するのか、限られた紙面の中で、あるいは限られた時間の中で、どの記事を報道するのか、報道する価値を見出すのか、これはまさにメディアの自主判断に委ねられています。

 これがある種の、つまりそのメディアの編集方針や考え方など政治的イデオロギー的機微に触れた場合、えてしてメディアはその事案に過剰に事実以上に「報道価値」を過大に与えてしまいがちです。

 ときに過剰報道を繰り返し、いさんでメディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)ことで「客観報道」を結果的に放棄してしまいます。

 もちろん、逆の危険もありえます、

 やはりある種の、つまりそのメディアの編集方針や考え方など政治的イデオロギー的主張に都合の悪い事実に触れた場合、えてしてメディアはその事案に対して過小な「報道価値」しか与えません、本来客観報道に値する国民的事案に対しても、消極的な報道にとどめるか、最悪の場合、あえて報道をしません、意図的に報道価値をゼロと見なしてしまうわけです。

 これらの危険性について、無論メディアも無自覚なわけではありません。

 「朝日新聞」「読売新聞」のそれぞれの「綱領」「信条」を確認しておきましょう。


http://www.asahi.com/shimbun/company/platform/

https://info.yomiuri.co.jp/group/stance/index.html

 「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き」(朝日要領)、「真実を公正敏速に報道」(朝日要領)、または「真実を追求する公正な報道、勇気と責任ある言論により、読者の信頼にこたえる」(読売信条)と、それぞれ謳ってはいます。

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 さて、上記の「不偏不党の地に立つ報道」「真実を追求する公正な報道」が、この国のマスメディアにおいて、如何にその実現が至難なことなのか、「朝日新聞」と「読売新聞」の6月20日付けの紙面で検証いたしましょう。

 まず朝日新聞紙面(東京本社14版)を確認しましょう。

 まず一面トップ記事に、沖縄県民大会で「海兵隊撤退求め決議」されたことを大々的に報じています。

■20日付け朝日新聞紙面1面トップ記事

※記事見出し部の赤囲いは当ブログで付記(以下の記事同様)

 続く2面では、「沖縄 あふれる抗議」と題して、6万五千人(主催者発表)の参加者をもって「参加者予想超す」とし、また参加した翁長知事の「負けてはいけない」発言を取り上げ、一方、自民党政権は「基地反対の波 政権警戒」とこの動きが波及することを恐れていることを詳細に報じています。

■20日付け朝日新聞紙面2面記事

 さらに社説では「怒りと抗議に向き合え」と県民大会に対する安倍政権の消極姿勢を批判しています。

■20日付け朝日新聞紙面社説

 そして最終紙面、社会面では、「沖縄 涙 怒り」と題して、「本土のみなさんも第二の加害者」「変わるんだと思ったが」と参加者の沖縄県民の声をひろい、あわせて国会前でも約一万人(主催者発表)の集会があったことを報じています。

■20日付け朝日新聞紙面社会面記事

 一面トップから、社説、社会面まで、4本の大型記事でほぼ紙面を埋めた朝日新聞の本事案に対する熱き「想い」が伝わってくるような紙面構成であります。

 ただ、朝日がこの事案に過剰に事実以上に「報道価値」を過大に与えてしまっている印象はぬぐえません。

 また「沖縄 あふれる抗議」(2面)、「怒りと抗議に向き合え」(社説)、「沖縄 涙 怒り」(社会面)と、朝日の主張を掲げるべき「社説」と、それ以外の客観事実報道すべき「記事」との表現の区別がみられません、つまり、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)報道が顕著なのです。

 さらに、抗議する側の主張・感情におもねるばかり、政府側の主張は一点も触れられていないのです。

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 さて同じ日20日付けの読売新聞紙面(東京本社版)です。

 今私の手元に20日付け読売新聞(東京本社版)がありますが、何度か繰り返し精読しましたが、読売紙面には、1面から社会面まで、沖縄県民大会の記事が関連記事も含めて一件も報じられていません。

 皆無なのです。

 一遍の「事実報道」すら存在しません、この事案にはオーディエンスに伝えるような報道価値は全く無いと言わんばかりです。

 まとめます。

 2015年11月度のABC部数によれば、読売新聞の発行部数936万部、朝日新聞は663万部であります。

 日本で発行部数1位の新聞と第2位の新聞のこの極端な「偏向ぶり」はいかがでしょうか。

 報道価値をゼロとみなし完全に沈黙する読売と報道価値以上に加熱報道する朝日と、二大新聞のこの報道の姿勢の差はいかがでしょうか。

 仮にですが、情報の取得手段が新聞しかなく(そのような市民は少ないでしょうが)その新聞が朝日新聞だけであった場合、今沖縄では大変なことが起こっている、沖縄県民の怒りはものすごい、なのに政府は何で向き合わないのか、と朝日の報道からそのような疑問を持つ読者がいても当然でありましょう。

 あるいは情報取得手段が読売新聞だけであった場合、そんな県民大会があったこと自体読者は知る由もないわけです。

 本エントリーは特定のメディアを批判する意図はありません。

 そうではなくて、繰り返しになりますが、そもそもメディアが報じる「報道」は、客観的という意味で本質的な限界性を有していることを、我々読者は改めて認識すべきなのでしょう。

 本件は、読者側がマスメディア報道を冷静に比較検証することで、報道内容(報道しない内容)を冷静に評価・リテラシーすることが可能である好事例だと考えます。



(木走まさみず)