木走日記

場末の時事評論

マスメディアが絶対取り上げないメディアスクラムが犯罪加害者の親族を追い詰めている実態

 ときに取材相手が社会的弱者である場合、この国のマスメディアは醜い「打落水狗」のルサンチマンと化しますことは当ブログでもエントリーしたとおりです。

2014-08-08■朝日新聞捏造報道に沈黙するTV局のチキンぶりはどうだ〜日本のマスメディアは醜い「打落水狗」のルサンチマン
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20140808/1407485945

 このエントリーにて、ときにこの国のマスメディアが自分たちの匿名性は守りながら、社会的弱者に実に強圧的な会見を行うことを指摘します。

 一つ目は会見対象者が社会的に「弱い者」であること。

 3年前はすでに引退を表明した大臣であり、失礼ながら大物政治家とはとても言えないお方であり、9年前はいかの大企業とはいえ100人を超える犠牲者を出した大事故の当事者JR西日本です。

 両者に共通するのはすでに社会的に十分に弱い立場である点です。

 言葉を変えればこれはマスメディアによる醜い「弱者いじめ」の側面があるといっていいでしょう。

 論より証拠、私たちはときの総理大臣や大物政治家に、その者がどんなに批判すべき対象であろうと、マスメディア記者が今回のように「説明しろって言ってんだよ!」と強烈に対峙したことは見たことがありません。

 真の国家権力に対峙することなく、彼らは小物に対してだけ強圧的に振舞うのです。

 二つ目の共通点は、暴言を吐いている記者が会見場において、社名・氏名をいっさい名乗らずに匿名性をキープしつつ発言していることです。

 3年前の大臣辞任会見においても問題の発言記者は大臣会見では社名・氏名を名乗ってから質問するというルールを無視しています。

 9年前の暴言記者もいっさい最後まで社名・氏名を名乗りませんでしたが、結局、週刊誌の記事により読売新聞大阪本社社会部遊軍T氏であることがわかります。

 力のある政治家など本当の権力には対峙できず、その反動が取材対象が弱者のときに高圧的に顕れます。

 正に『溺れる犬は石もて打て』とばかりのメディアスクラムを組むわけです。

 本当の権力には対峙できず、「社会の木鐸」を自負しているこの国のマスメディア記者はルサンチマン意識の塊となっています。

 いきおい、彼らは自分たちの批判をしやすい「弱者」にときに極めて高圧的に振舞います。

 自分たちのルサンチマン意識を慰めるために、そして自分たちのチキン体質を自意識の中で自己否定するために。

 「打落水狗」(『溺れる犬は石もて打て』)

 結果、この国のマスメディアは溺れている犬に追い討ちを掛けるような醜態を晒すことになります。

 日本のマスメディアは醜い「打落水狗」のルサンチマンなのであります。

 ・・・

 そのような「弱い者いじめ」のメディア・リンチの最悪の事例が犯罪加害者の家族に対する過剰取材・過剰報道です。

 ときにこの国のマスメディアは、科学的・客観的な情報を軽視する一方で、断片的な警察情報や取材結果などを根拠にマスコミが独自に描いた疑惑の構図の中で、メディアスクラムの発生とさらなる加熱取材によって特定の取材対象(犯罪加害者の関係者)に対するメディア・リンチの様相を呈することがあります。

 2006年3月28日、建設設計偽証事件において、容疑者の姉歯建築士の妻がマンションから過剰報道被害を苦に、飛び降り自殺いたします。

 1990年に発生した連続幼女殺人事件の宮崎勤加害者の父親は、4年後の1994年に自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りを付けると、東京都青梅市多摩川にかかる神代橋(水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げます。
 今年の春には、『秋葉原連続通り魔事件』の犯人(加藤智大被告)の弟が、やはりマスメディアの過剰取材を苦に自殺いたします。

秋葉原事件』加藤智大の弟、自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」
2014/4/11 16:39
http://www.j-cast.com/tv/2014/04/11201931.html

 マスコミの過剰取材は苛烈を極めたようです、当人の独白によれば、自宅にも職場にもメディアの取材記者が押し寄せ、「事件によって職を失い、家を転々とするが、マスコミは彼のことを放っておいてはくれなかった。就いた職場にもマスコミが来るため、次々と職も変わらなければならなかった」そうです。

日本の犯罪史上まれに見る惨劇「秋葉原連続通り魔事件」が起きたのは2008年6月8日の日曜日。加藤智大は白昼の秋葉原の雑踏に2トントラックで突っ込み、さらにダガーナイフを使って7人もの命を奪った。
弟は兄が犯した事件によって職を失い、家を転々とするが、マスコミは彼のことを放っておいてはくれなかった。就いた職場にもマスコミが来るため、次々と職も変わらなければならなかった。

 さて、6日付け朝日新聞電子版記事から。

佐世保高1殺害、容疑者の父死亡
2014年10月6日05時00分

 長崎県佐世保市で7月に高校1年の女子生徒(当時15)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された同級生の少女(16)の父親(53)が、同市内の自宅で首をつった状態で死亡しているのが5日、見つかった。県警は自殺とみている。県警や消防によると、5日午後4時ごろ、父親の知人から119番通報があった。

 少女は7月26日、生徒の頭を工具で殴り、首をしめて殺害した疑いで翌朝に逮捕された。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11388033.html

 うむ、またしても世間を騒がせた事件の加害者家族が自殺に追い込まれたわけです。

 当事件の未成年女子の猟奇的殺人という極めて特異な殺人事件であることの性質上、加害女子生徒の家庭環境は事件当初から注目を集めました、父親周辺にマスメディアの取材が殺到したのはご承知の通りです。

 この父親に関しては、事件直前に再婚をしていたことや娘を独り住まいさせていたことなど、メディアにおいてもかなり批判的な報道が繰り返しされました。

 しかし犯罪者でもないこの父親に対して、マスメディアの加熱取材・メディアスクラムは、はたして「報道倫理」は守られ父親の人権は守られていたのか、はなはだ疑問です。

 姉歯事件で妻が自殺した時も、宮崎事件で父親が自殺した時も、秋葉原事件で弟が自殺した時も、マスメディアはベタ記事扱いでした。

 新聞・テレビのマスメディアにおいて、加害者家族の自殺の理由を検証するような報道は全く見られません。

 マスメディアの過熱報道すなわちメディア・リンチが、犯罪者でもない一般人を自殺まで追い詰めた要因のひとつである可能性を検証することは、この国のチキンなマスメディアにはできないのです。

 上記週刊誌の取材で自殺する一週間前に『秋葉原事件』加害者の弟はこう訴えています。

<被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも、被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遙かに軽く、取るに足りないものでしょう。(中略)
ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。
そもそも、「苦しみ」とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちのほうが苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。
だからこそ、僕は発信します。加害者家族の心情ももっと発信するべきだと思うからです。
それによって攻撃されるのは覚悟の上です。犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。(中略)
こういう行動が、将来的に何か有意義な結果につながってくれたら、最低限、僕が生きている意味があったと思うことができる>

 ときにこの国のマスメディアの過剰報道は、被報道者の生活基盤、人間関係、名誉、などを破壊してしまう、最悪は生命まで奪ってしまうケースがあるわけです。

 注目を集めた事件の加害者の親族というだけで、一般人が「報道倫理」を無視した形でメディア・リンチを受けてしまう・・・

 人は真実を知る権利があり、マスメディアには真実を報道する「報道の自由」が憲法により担保されています。

 しかし、例え凶悪犯罪を犯した加害者の親族であろうとも、マスメディア報道から最低限守られるべき人権があるはずです。



(木走まさみず)



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■2013-06-27 今回のメディアスクラム状態の犯罪報道は報道の名を借りた犯罪だ
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20130627