木走日記

場末の時事評論

反原発デモ参加者は「感情的愚者」なのか「理性的公衆」なのか?〜「メディアによって情報を共有する理性的な公衆の登場」の期待を込めて

 29日付け朝日新聞電子版記事から。

全国各地で原発抗議 官邸前「15万人」で騒然

 関西電力大飯原発福井県)の再起動を7月1日に控え、反対する市民らの抗議行動が29日夜、首相官邸前であった。毎週金曜日夜を中心に実施されてきたが、主催者はこれまで最高だった前回の約4万5千人を大きく上回る15万〜18万人が集まったとしており、官邸周辺は騒然となった(警視庁調べで約1万7千人)。同じ時間帯に全国各地でも抗議行動があり、反対の声は広がりを見せた。

(後略)

http://www.asahi.com/national/update/0629/TKY201206290577.html

 毎週金曜首相官邸前で原発再稼働の反対デモが行われているわけですが、週をおうごとに動員人数が増え続け、当初は静観していたマスメディアでも社会問題としてこれを報道するようになりました。

 このデモですが、ネット上で一人の青年のTwitterを通した呼びかけに多くの人々がネットを通じて呼応して活性化してきた経緯があり、「紫陽花(あじさい)革命」と呼ばれているようです。

 国際的に比較しても大衆デモの少ない日本において、こういう形で、すなわち労働組合員などの組織的動員ではなく不特定市民による自発的参加という、大規模のデモが発生するのは実に興味深い現象だと言えます。

 さて、デモの目的が原発再稼働反対という一点であることから、このデモに対する評価はネット上の論説でも肯定派と批判派に割れているようです。

 経済学者の池田信夫氏はこのデモは「愚者の行進」であると批判しています。

愚者の行進
http://blogos.com/article/42200/?axis=b:80

 記事より引用。

すでに運転許可が出て再稼働の作業は始まっているので、これを止めるには電気事業法にもとづく技術改善命令が必要で、デモは役に立たない。他の原発を動かすなという示威だとすれば、それはすでに5兆円に達している原発停止による損失をさらに拡大するだろう。つまりこれは日本をさらに貧しくしろというデモなのだ。

 池田氏は「これは日本をさらに貧しくしろというデモ」だと指摘、歯に衣着せぬ表現でデモ参加者を「愚者」と痛罵しています。

 一方、ジャーナリストの神保哲生氏と社会学者の宮台真司氏は、今回のデモを肯定的にとらえた上で、「デモを政治的な影響力に変えていくために、デモの参加者やその主催者たちが何をしなければならないか」を議論しています。

原発デモを力に変えていくために
http://blogos.com/article/42237/?axis=g:0

 ビデオニュースの中で宮台氏は、今回のデモを単なるガス抜きやカタルシス自己満足で終わらせること無く、例えばデモ主催者はマスメディアと政治家を巻き込むような議論に発展するような具体的な策を講じるべきと発言しています。

 ・・・

 デモ批判派とデモ肯定派のひとつの論点は、デモに集まった「群衆」に対する評価の相違にあります。
 
 彼らは一部に扇動された感情的な衆愚なのか、それともネットによって情報を共有する理性的な集団なのか、という点です。

 この問題は、日経記事で武田徹教授が指摘しているように、20世紀初頭に起きたフランスにおいての社会心理学者の間の論争を思い出させます。

ネットが変える社会運動
参加者の輪を広げる 恵泉女学園大学教授 武田徹
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO43228340Q2A630C1MZA000/

 ギュスターヴ・ル・ボンは1895年の『群衆心理』において、「今われわれが歩み入ろうとしている時代は、群衆の時代である」と論じます。

 彼の定義する「群衆」とは、その構成員すべてが意識的人格を完全に喪失し、操縦者の断言・反復・感染による暗示のままに行動するような集合体であります。

 そして、ル・ボンは、産業革命以後の社会現象の特徴が、人びとをこうした群衆心理下に追いやるものであると論じました。

 これに対して、ガブリエル・タルドは1901年には『世論と群集』を刊行、ル・ボンの群集心理学を批判し、直接対面的な関係によって結合する群集に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する公衆概念を提示します。

 つまりタルドはメディアによって情報を共有する理性的な公衆の登場に期待したのです。

 ・・・

 今回の「紫陽花革命」と呼ばれる反原発デモですが、ソーシャルメディアを中心にネットから活性化している点でタルドの言うところの「メディアによって情報を共有する理性的な公衆の登場」に当てはまるかも知れません。

 今回のデモが成功するかどうか、それは「メディアによって情報を共有する理性的な公衆」を維持できるかどうか、ここが大きなポイントだと考えます。

 しかし、デモの規模が大きくなるにつれ動員母体に不純物(デモを利用する特定イデオロギー団体、自己満足のためやお祭り的騒動に便乗しバカ騒ぎするだけが目的の者など)の参加が多くなるだろう中で、「情報を共有する理性的」な群集という質を維持し続けることができるのか、難しい課題です。

 騒乱や破壊活動など、そのような質の低下がもし起きれば、多くのサイレントマジョリティー(デモには参加していないが長期的な視点での原発廃止には賛成の国民)から、反発を買い、デモ参加者は世論から乖離したウイタ存在として孤立する可能性があります。

 デモの規模が拡大すればするほど、その社会的影響は大きくなります。

 デモはその主張を実現するための手段です、戦略的にデモの規模の拡大を目指すことは当然でしょう。

 しかしより重要なことは世論の支持を失わないことです。

 デモに参加していない国民の意識から乖離しないためには、デモ参加者の質的低下を招くことを断固避けなければなりません。

 海外のデモで見られるようなルール無き騒乱や暴動などはこの国の風土になじみません。

 もしそのようなことが起これば、タルドの唱える「メディアによって情報を共有する理性的な公衆」から、ル・ボンの唱える「操縦者の断言・反復・感染による暗示のままに行動するような集合体」に、デモに対する国民の評価は変質してしまう可能性があります。

 ・・・

 デモの規模が大きくなっていく、従ってデモ参加者が増えていく、どうかそのような制御しづらい状況においても、主催者はあくまでも理性的に合法的にデモを統率していってほしいです。

 それがこのデモに対する国民の支持に繋がると考えます。

 私は、今回のデモが「メディアによって情報を共有する理性的な公衆の登場」が日本で実現した初めてのケースであると、後から評価されるような結果を出してほしいと期待をこめて願っています。

 反原発デモの今後の展開に注目していきたいです。

 

(木走まさみず)