木走日記

場末の時事評論

「日本は無条件降伏していない」〜終戦記念日の産経の少しノスタルジックでメランコリックな記事

 64回目の終戦記念日を迎えたわけですが、終戦記念日に産経紙面に掲載された記事がとても懐かしかったのでご紹介。

【昭和正論座東工大教授・江藤淳 昭和53年8月10日掲載 (1/4ページ)
2009.8.15 07:37
 ■日本は無条件降伏していない
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090815/plc0908150738003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090815/plc0908150738003-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090815/plc0908150738003-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090815/plc0908150738003-n4.htm

 昭和53年8月10日掲載とありますので31年前の懐かしい記事なのでありますが、このへんの保守産経のこだわりというか意固地さは、不肖・木走は嫌いではありません、むしろ大好きだったりします。

 31年前、江藤氏と本多氏との間のいわゆる「無条件降伏論争」が起きたわけですが、若い読者の方の中には論争の経緯も含めて知らない人も多いでしょうから、終戦記念日でもありますので、今日はこの話題を取り上げたいと思います。

 最近の教科書ではどう書かれているのか情報をおさえていないのでわかりませんが、40代親父である不肖・木走が中学・高校の時には当たり前のごとくほぼすべての教科書には「日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した」と記述されていたと記憶しています。

 で、まず江藤淳氏に代表される『日本は無条件降伏していない』説のその主張をこの記事を引用する形でご説明しましょう。

 主張の核心(コア)部分はここ。

 (前略) 

 なぜなら、ポツダム宣言第五項は、「吾等ノ条件ハ左ノ如シ(Following are our terms.)」として、第六項以下の条項に降伏条件を明示し、「無条件降伏(unconditional surrender)」なる語が用いられているのは第十三項においてだけで、それもただ一ケ所「全日本国軍隊ノ無条件降伏(the unconditional surrender of all Japanese armed forces)」という文言において用いられているだけだからである。
 つまり、ポツダム宣言を受諾した結果「無条件降伏」したのは「全日本国軍隊」であって日本国ではなかったのである。これは決して無意味な言葉の遊戯でもなければ、私の詭弁(きべん)でもない。この事実の上には今日の日本の存立がかかり、殊に対ソ関係においては、わが北方領土返還要求の合法性がかかっている。

 (後略)

 ポツダム宣言で「無条件降伏」なる語が用いられているのは第十三項においてだけで、それもただ一ケ所「全日本国軍隊ノ無条件降伏」という文言において用いられているだけであり、「つまり、ポツダム宣言を受諾した結果「無条件降伏」したのは「全日本国軍隊」であって日本国ではなかった」、日本国としては有条件の降伏だったのだとする主張であります。

 さらにポツダム宣言が無条件降伏文書ではないことは、実はアメリカ側も認識していたと主張します。

 ≪降伏条件実行求める権利≫  
 ところで、『アメリカ合衆国外交関係文書」所収第一二五四文書「国務省覚書」(一九四五年七月二十六日の宣言と国務省の政策との比較検討)を一見すると、ポツダム宣言発出当時から米国務省がこの宣言の性格を正確に把握し、それが従来の国務省の政策の抜本的な変更を意味することを認識していたことが明らかである。
 もともと「無条件降伏」の構想は、米大統領フランクリン・ローズヴエルトが南北戦争の戦後処理にヒントを得て、着想したものだといわれている。それはまず一九四三年一月二十六日、カサブランカ会談終了時の記者会見において、対枢軸国方針として声明され、同年十一月二十七日のカイロ宣言において、「日本国の無条件降伏」という文言に特定された。
 この基本方針が、ポツダム宣言における「全日本国軍隊の無条件降伏」に後退を余儀なくされたのは、(1)ローズヴエルトの病死、(2)日本軍の予想外な頑強な抵抗、(3)連合国間の思惑の変化等々の理由によるものと考えられる。これについて米国務省は、前記「覚書」において、戦勝国の意志を一方的に敗戦国に押しつけようとする従来の「無条件降伏」方式が、ポツダム宣言の結果重大な修正を加えられたことを認め、次のような見解を下している。
 ≪ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規定によって解釈される国際協定をなすものとなる≫つまり、ポツダム宣言は、日本のみならず連合国をも拘束する双務的な協定であり、したがって日本は、占領中といえどもこの協定の相手方に対して、降伏条件の実行を求める権利を留保し得ていたのである。

 ポツダム宣言をさかのぼる2年前のカイロ宣言においては確かに「日本国の無条件降伏」という文言に特定されていますが、この基本方針が、ポツダム宣言における「全日本国軍隊の無条件降伏」に後退を余儀なくされたのは、いくつかの理由があり、その結果 ≪ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規定によって解釈される国際協定をなすものとなる≫つまり国際条約の体裁を有した有条件降伏文書であったと「国務省覚書」に記されているとします。

 つまるところ、日本国のポツダム宣言受諾は無条件降伏ではなく、「全日本国軍隊の無条件降伏」という条件を含む有条件降伏だったとの主張なのであります。

 ・・・

 一方本多氏に代表される『日本は無条件降伏したのだ』説ですが、以下のサイトがよくまとまっているようですのでご紹介。

日本国は無条件降伏をしたか?
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ADD/Mujoukenkoufuku.htm

 まず日本が無条件降伏したという認識は「戦後まもなくから、普通に言われていること」であるとし、政府の国会答弁を2つ掲載しています。

昭和24年11月26日 衆議院予算委員会(注)

○吉田国務大臣内閣総理大臣 吉田茂君) 

・・・またこの間もよく申したのでありますが、日本国は無条件降伏をしたのである。そしてポツダム宣言その他は米国政府としては、無条件降伏をした日本がヤルタ協定あるいはポツダム宣言といいますか、それらに基いて権利を主張することは認められない、こう思つております。繰返して申しますが、日本としては権利として主張することはできないと思います。しかしながら日本国国民の希望に反した条約、協定は結局行われないことになりますから、好意を持つておる連合国としては、日本国民の希望は十分取入れたものを条約の内容としてつくるだろう、こう思うのであります。

昭和26年10月24日 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会

○西村政府委員(外務事務官 條約局長 西村熊雄君)

 日本は連合国がポツダム宣言という形で提示いたしました戦争終結の條件を無條件で受けて終戦いたしたのであります。無條件降伏というのは、戰勝国が提示した條件に何ら條件をつけずして降伏したという意味であります。その当時、政府、大本営連合会議においてポツダム宣言に対して種々の條件を付してこれを受諾したいという議があつたことは、佐竹委員よく御存じのことだと思います。ただ連合国が戦争指導方針として、無條件降伏というものを強く主張しておりました情勢から考えまして、日本全体といたしましては、何ら條件を付さないで、先方の提示した條件を受けたのであります。それが無條件降伏をしたという意味でございます。むろん先方が提示したポツダム宣言の中には條件がございます。その條件の一として、日本の領土の範囲は連合国できめるという一項がございます。その條項に従つて、連合国が日本の領土について最終的な決定を与えるまで、日本といたしましては、あらゆる角度から日本の要請、国民感情その他が連合国によつて考慮に入れられるよう努力いたすことは当然でございますし、また政府といたしましては、十分その責務を盡したと存じております。しかしその結果、平和條約におきまして、連合国が最終的決定をいたしました以上は、條件をつけないでポツダム宣言を受諾した以上、日本としては男らしくこれを受けるものであるというのが、総理の考え方だと存じます。

 またアメリカ側も実質的には日本の無条件降伏であると認識しているとしています。

 実際はどうだったのでしょう。日本が降伏した直後の、1945年9月6日付け、米国からマッカーサーへの通達には、次のように書かれています。

1945年9月6日付け、マッカーサー宛て通達

1 天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。

 このように、米国は、日本の降伏は、日本国の無条件降伏であると、マッカーサーに指示し、マッカーサーは、無条件降伏であるとの認識で。占領政策を実施しています。

 日本国も同様で、たとえば、昭和25年02月06日、衆議員予算委員会で、吉田総理大臣は次のように、連合国にポツダム宣言違反があっても、権利として交渉できないと答弁しています。

昭和25年02月06日、衆議員予算委員会 吉田総理大臣答弁(注)

お答えいたしますが、先ほども申した通り、今日日本としてはまだ独立を回復せず、かたがた独立して外交交渉に当る地位におりませんから、従つて、今お話のようなポツダム宣言に違反した事項があるその場合に、政府としては権利として交渉することはできません。

 このように、日米双方共に、ポツダム宣言の条項は、法律用語で言うところの『条件』であるとは、認識していません。(もし、条件であるならば、条件が満たされない場合は、降伏自体が無効になりかねないのに、日米共に、そのような認識を持っていません。)

 たとえ、形式的に降伏条件とも読める条項が条文にあったとしても、実際に条件と認識せずに、実際に実施の権利がないならば、実質的には、無条件降伏です。 (実際に実施の実行力があるかどうかは、無条件か有条件かとは関係ないとしても、実際に実施の権利がないならば、実質的には、無条件降伏です。)

 「たとえ、形式的に降伏条件とも読める条項が条文にあったとしても、実際に条件と認識せずに、実際に実施の権利がないならば、実質的には、無条件降伏」なのだとの主張です。

 ・・・

 この議論、決着はどうなったのかは例によってフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から引用しましょう。

無条件降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

(前略)

無条件降伏論争
1978年、文芸評論家の江藤淳本多秋五の間で「無条件降伏論争」が行なわれた(江藤『全文芸時評』『もう一つの戦後史』、『本多秋五全集』第13巻)。その際、東大教授で国際法の権威である高野雄一は、江藤が正しいとした。その後学術的に高野らに明確に反論した者はなく、ポツダム宣言受諾は条件つき降伏であるとの論が有力である[6]。この際本多は、ドイツの降伏が無条件降伏であったのに対し、日本のそれは条件つき降伏だったと認めつつ、カイロ宣言の精神がポツダム宣言の底流に流れているとしている。

(後略)

http://ja.wikipedia.org/wiki/無条件降伏

 「東大教授で国際法の権威である高野雄一は、江藤が正しいとした。その後学術的に高野らに明確に反論した者はなく、ポツダム宣言受諾は条件つき降伏であるとの論が有力である」と記されています。

 高野氏はポツダム宣言は「事前に条件を提示した和平勧告降伏要求」であると解釈しています。

 ・・・

 ・・・

 この31年前の『日本は無条件降伏していない』論争は、一時とても熱き論争となりましたが、一部のコアな学者や評論家を除いてはその後下火になり、一般国民の間では最近までほとんど議論されずに忘れ去られた過去の議論となっていました。

 私の私見ですが、ポツダム宣言受諾の意味するところが、日本が無条件降伏を受諾したのではなく、「全日本国軍隊の無条件降伏」という条件を含む有条件降伏を受諾したというのが、国際法的解釈として正当であったとして、私を含む多くの国民にとってその法的解釈論争の意味はあまり見いだせなかったのではないでしょうか。

 完敗は完敗だったわけだし、焼け野原にマッカーサーが偉そうにパイプくわえてやってきたし。

 現実には「無条件降伏」でなかろうとあろうと、日本はアメリカに一方的に占領され国家としての独立権を一時取り上げられたし、占領軍・GHQは司法・行政・立法の3権に大きく干渉して、遣りたい放題日本の制度を根本から改革したわけです、憲法も含めて。

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 産経が終戦記念日に31年前の「日本は無条件降伏していない」記事を掲載したことは、私的にはその保守派としてのこだわりを私は好きです。

 こういう論争があったことを若い世代に知ってもらうことも意味があると思います。

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 個人的には少しノスタルジックでメランコリックな感じもこの日にふさわしくまた良しです。



(木走まさみず)