木走日記

場末の時事評論

仲井真氏の名前から想起する琉球王朝の悲哀の歴史

 沖縄県知事選で、「自公」が推した仲井真弘多氏が接戦の末、「反自公」に支援された糸数慶子氏らを破ったのであります。

 開票結果は以下の通り。

開票結果(投票率 64.54%)
当 仲井真弘多 347303 無新
  糸数けいこ 309985 無新
  屋良 朝助   6220 諸新

 この結果は阿倍政権にとって追い風とはなるでしょうが、阿倍政権の政策に対する承認を得たというよりも、沖縄県民が、全国最悪の失業率の打開など現実的に「基地」よりも「経済」を優先した結果と申せましょう。

 新聞各紙の論説も阿倍政権よりも野党民主党党首小沢氏の党内求心力の低下を予測する内容が目に付くわけですが、とりあえず仲井真氏には沖縄県民の利益代弁者としてご健闘をお祈りいたします。

 知事選の結果についての今後の政局に与える影響とかの分析は、まじめな他のブログにお任せするとして、当日記としては時事問題からは少し脱線しまして、今回の知事選で目立った各候補のめずらしい名字について少しあれこれ考えてみたいのです。



●珍しい各候補の名字の由来を検証してみる〜「大和めきたる名字」の使用禁止

 仲井真(なかいま)、糸数(いとかず)、屋良(やら)、いずれの候補も沖縄以外の地ではあまり聞かない名字なのでありますね。

 明治維新の後、1872年の「琉球処分」で日本国に組み込まれた沖縄なのですが、本土と同様そのタイミングで県民すべてに「名字」が与えられたのであります。

 その際多くの名字が沖縄の「地名」や「字(あざ)」からそのまま使われたようです。

沖縄の苗字

 沖縄にはおよそ1,500種の名字があると言われています。そして、その大半が本土では珍しい、沖縄独特の名字です。
 また、沖縄の名字は、大半が「地名」「字」などからきているものです。

 沖縄で多い名字と言えば、3大名字と言われる「比嘉(ひが)」「金城(きんじょう)」「大城(おおしろ)」に加え、「宮城(みやぎ)」「新垣(あらかき)」「玉城(たまき・たましろ)」「上原(うえはら)」「島袋(しまぶくろ)」「平良(たいら)」「山城(やましろ)」がベスト10と言われております。

 このほかには「知念(ちねん)」「宮里(みやさと)」「下地(しもじ)」「仲宗根(なかそね)」「照屋(てるや)」「砂川(すながわ)」「仲村(なかむら)」「城間(しろま)」「新里(しんざと)」なども、多い名字です。

 また、本土と同じ読みの名字であっても、本土で一般的なとは表記が異なる名字も少なくありません。
 例えば

「なかむら」→「仲村」
「さかい」→「佐加伊」
「なかそね」→「仲宗根」
「まえだ」→「真栄田」
「やぎ」→「屋宜」

という具合です。

 また、本土では一般的な「鈴木」「佐藤」「斉藤」「田中」などという名字は、本土からの移住者を除いては沖縄では珍しいようです。

http://www.asahi-net.or.jp/~QK3M-KNK/oki-zatu02.htm

 今回の知事選の3候補もすべてその名字は沖縄の地名の字が由来であるようですね。

沖縄県 那覇市 仲井真
http://www.tukaerusite.com/navi/area_9020074/

"糸数城跡"(沖縄県島尻郡玉城村糸数
http://churashima.zero-yen.com/gusuku/itokazu_zyo.html

沖縄県 中頭郡嘉手納町 屋良
http://www.tukaerusite.com/navi/area_9040202/

 特に糸数(いとかず)は沖縄では城のことをグスクと読みますが、玉城村には糸数城もあるわけで由緒正しいお名前なのでありますね。

 しかしながら、実は沖縄の地名そのものが実は古くからの有力者の名字が地名になったところも多いようであります。

 しかしながら、本土の「中村」に対し沖縄では「仲村」が主流であり、「中曽根」が「仲宗根」であるのは、これは単に地名からというより沖縄の悲しい歴史を今に物語る由来があるようです。

 1609年3月、薩摩の島津藩は3,000の軍を率いて琉球諸島へ進軍、戦闘経験のない琉球王国は10日で破れ首里城を明け渡します。

 当時の国王尚寧(しょうねい)は島津へ連行され、服従の証文を書かされました。

 以後、琉球王国は、独立王国を名乗りながらも日本に従属するという立場を取ることになります。

 そして島津はそれ以降、薩摩藩は「異国」を従えていることを権威づけるために、琉球が外国であることを演出するさまざまな政策を遂行します。

 手始めに服装や髪型を異国風に装わせ、1624年になると今度はさらに「大和めきたる名字」の使用禁止を令達するのであります。

 その結果、上記のような同音でも違う漢字を当てはめた沖縄独特の名字や地名が多数生まれたのでした。



●仲井真氏の仲の字から琉球王朝の悲哀の歴史が想起される

 数年前、那覇市首里城を沖縄の高校の先生と訪れたとき、有名な「朱礼の門」をくぐり、戦後最近立て直された「正殿」を見学いたしました。

 当時、私は畑違いにも、沖縄の高校の学習資料づくりでお手伝いをしていたのでした。

 それはともかく、琉球王朝の王様がいた首里城の正殿、その玉座には、「中山世土」と書かれた額が飾られています。

 「中山世土」とは、沖縄が島津に支配される以前、最初に沖縄の統一王朝になった中山王府が、中国皇帝から送られたモノだそうです。

 「中山世土」(ちゅうざんせいど) の扁額は本来は中国皇帝の直筆であり「この土地は何時の世までも琉球国中山の物」で有る事を永遠に保証する意味を現しています。

 14世紀頃の沖縄本島は「北山」「中山」「南山」の三山時代がしばらく続き、その中で最も有力であった「中山」が、「北山」「南山」と続けて滅ぼし、以後琉球王朝は明治時代になりその歴史を閉じるまで自らを「中山王府」と名乗ったのだそうです。

 琉球王朝の興隆は15世紀がピークといわれ「大航海時代」を迎えて、中国、朝鮮、日本だけでなく、マニラや遠くはシャム(タイ)とまで交易を広げましたが、西洋諸国(初期はポルトガルやスペイン、後にオランダや英国)の進出により、交易は縮小を余儀なくされたそうです。

 島津に征服される1609年頃にはすっかり衰退していた琉球王朝でありましたが、ここに悲しいエピソードがあるのでした。

 1624年、島津から「大和めきたる名字」の使用禁止を命じられ当時の琉球の氏族や貴族がこぞって改名いたしますが、ところが、17世紀の後期、尚貞が琉球王つまり「中山王」に即位すると、姓や村名に「中」の字を使用することが禁止されたのだそうです。

 島津に征服され、住民の名前まで改名を強いられ王朝としては存続してはいたモノの事実上独立からはほど遠い属国扱いに、時の琉球王である尚貞はいにしえの栄光を懐かしむかのように「中山王」の「中」は高貴な字であり王族以外の者は使用禁止としたのでした。

 ・・・

 これにより「中村」は「仲村」に「中曽根」は「仲宗根」に変わったのだそうです。

 沖縄の名字で「中」の字がすべて「仲」になってしまったのは、琉球王朝の悲哀の歴史と深く関わっているのでした。



(木走まさみず)



<参考サイト>
■沖縄の苗字
http://www.asahi-net.or.jp/~QK3M-KNK/oki-zatu02.htm
■沖縄の地名
http://www.haisai.co.jp/chimei5.htm
■仲村清司の沖縄移住録
ニンベンがつく名字について
http://nakamura.ti-da.net/e469986.html
■古代琉球の歴史
http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30256/civilization/ryukyu/history.html