木走日記

場末の時事評論

「広義のいじめ」とか「狭義の強制連行」とか〜元の言葉が負のイメージの場合の安直なカテゴリー分けの表現方法としての限界

 ある重要な言葉の意味にあいまいさが残るときに、日本人はときに「広義」とか「狭義」というカテゴリーでその言葉の意味するところを分けて議論しようとするのであります。

 ある言葉を一つの基準をもとに広い意味範囲と狭い意味範囲に分け、前者を「広義」とし後者を「狭義」とするこの論法ですが、ときに発言者によりその基準があいまいだったり、その分け方自体が恣意的・主観的で論理的・科学的な実証が難しい基準だったりすると、この論法は用い方によっては詭弁性を帯びてしまうこともしばしばなのであります。
 まして元の言葉に強烈な負のイメージがつきまとう場合、「広義」とか「狭義」とかをまじめに議論すること自体、その真摯な意図とは別に、第三者の心に負の印象を強調してしまうこともあるのです。



●広い部分でのいじめがあったということ〜朝日新聞記事から

 昨日(30日)の朝日新聞記事から・・・

「広い意味でいじめ」「原因かは難しい」岐阜・中2自殺
2006年10月30日12時33分

 岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学2年生の女子生徒(14)が自殺した問題で、同校の佐々木喜三夫校長らが30日午前、同市役所で会見し、「『ウザイ』や『キモイ』といった言葉によるいじめはあった」と明らかにした。一方で、「今の時点では自殺に結びつけるかどうかの判断は難しい」と述べて、学校側は今後も調査を続ける考えを示した。

 会見で、佐々木校長は、「27日に遺族宅を訪問した際に撮影されたビデオを見た。その中で『いじめがあった』と表現した」とし、「広い部分でのいじめがあったということ。言葉足らずだったが、悪口も含めると、いじめがあったと思う」と説明した。 「言葉によるいじめやからかいはあったのか」という質問には、「言葉によるいじめやからかいはあった。ただ、自殺に結びつけるかどうかの判断は難しい。推測の域を出ないため確認が難しく、最終的には結びつけられないだろう。ただ、いじめと自殺の関係をうやむやにしようとは思っていない」と述べた。

http://www.asahi.com/national/update/1030/NGY200610300011.html

 中学2年生の女子生徒(14)が自殺した問題で、佐々木喜三夫校長は「広い部分でのいじめがあったということ。言葉足らずだったが、悪口も含めると、いじめがあったと思う」とし、「ただ、自殺に結びつけるかどうかの判断は難しい。」と述べたそうです。

 「広い部分でのいじめがあった」とはなんともあいまいな非論理的な表現であります。

 前後の文脈から、この場合の「広い」意味での「いじめ」と「狭い」意味での「いじめ」は、どうやらその「いじめ」が直接自殺に結びついたと認められるのが「狭義」の「いじめ」で、直接自殺に結びついたとは判断できないのが「広義」の「いじめ」として、校長は使い分けているようです。

 校長先生が決して不真面目に「広い部分でのいじめ」と表現したのではないことは理解しています。

 自殺と結びつくほどの深刻な「いじめ」は認められないというニュアンスを示したかったのでしょう。

 一般論としてですが、同世代の子供を持つ木走としても、この事件を聞いたときに「このぐらいのことで命を捨ててはいけない」という残念な想いは持ちました。

 しかしです、「広い意味でいじめ」という表現はいただけません。

 ・・・

 まず「広い意味でいじめ」という表現は、これは非論理的で苦しい範疇分けです。

 たしかに、この自殺した中学生が、周囲のどのような言葉やふるまいにどのような想いで心傷ついたのかは、当人でなければわからない領域の判断の難しい問題であり、校長がいうとおり「推測の域を出ないため確認が難しく、最終的には結びつけられない」でしょう。

 しかし「直接自殺に結びついた」か判断が難しいならば逆になにが「広い意味でいじめ」であり、なにが「狭い意味のいじめ」であるのか、そのカテゴリー分け自体極めて「推測の域を出ない」非論理的なあいまいさがつきまとうでしょう。

 事実としては自殺が起こってしまったわけです。

 この場合、校長先生は客観的事実に基づき、「広義」だとか「狭義」だとか不確かなカテゴリーで分けないで、「いじめ」はあった、あるいは「いじめ」はなかったと明言すべきなのです。

 もし「いじめ」はあったのならば、自殺との因果関係は現時点で学校として確認中である、と粛々と客観的に報告すべきです。

 なまじ「広い意味でいじめ」などカテゴリー分けをして表現しても、「いじめ」に対してマイナスイメージしか持っていない国民には、たとえ校長の分析が論理的な根拠に基づいていても、「いじめ」があったのだという安直な反発しか生じないのだということを、この校長先生は理解してないようです。

 ・・・



河野談話の「継承」を表明した首相も「狭義の強制性」との表現〜読売新聞社説から

 今日(31日)の読売新聞社説から・・・

10月31日付・読売社説(1)
 [河野談話]「問題の核心は『強制連行』の有無だ」

 この発言のどこが問題だと言うのだろうか。

 いわゆる従軍慰安婦問題に関する河野洋平官房長官談話について、「研究」の必要性を指摘した下村博文官房副長官の発言のことである。

 民主党など野党側は、河野談話の「継承」を表明した安倍首相の答弁と矛盾するとして「閣内不一致」と批判する。

 下村氏の発言は、「個人的には、もう少し事実関係をよく研究しあって、その結果は、時間をかけて客観的に科学的な知識をもっと収集して考えるべきではないかと思っている」というものだ。

 元慰安婦への「お詫(わ)びと反省の気持ち」を表明した河野談話は、その前提となる事実認定で、旧日本軍や官憲による「強制連行」があったことを認める記述となっている。韓国政府から「日本政府は強制連行だったと認めよ」と迫られ、十分な調査もせずに閣議決定された。

 慰安婦問題は、一部全国紙が勤労動員制度である「女子挺身(ていしん)隊」を“慰安婦狩り”だったと虚報したことが発端だ。慰安婦狩りをやったと“自白”した日本人も現れたが、これも作り話だった。政府の調査でも、強制連行を示す直接の資料はついに見つからなかった。

 河野談話が、「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチより、「反日」世論に激した韓国への過剰な外交的配慮を優先した産物だったのは明らかである。そうした経緯を踏まえ、下村氏は「研究」の必要性を指摘しただけだ。

 民主党などがそれでも問題だと言うなら、強制連行の有無という河野談話の核心部分をどう考えるのか、自らの見解を示してから追及するのが筋であろう。

 河野談話の「継承」を表明した首相も、「狭義の強制性」との表現を使い、強制連行は「今に至っても事実を裏付けるものは出ていない」と指摘している。下村氏の発言は首相の答弁と矛盾しない。

 仮に首相答弁と違っていたにせよ、歴史認識も絡むような問題で、「個人的」と断った見解まで、完全な一致を求めるのは、かえって不健全ではないか。

 政府見解は、金科玉条のように継承しなければいけないと決まっているものではない。おかしなところがあればただすのは当然のことだ。

 大事なのは事実である。

 軍や官憲による強制連行はあったか、なかったか――。政治的な思惑や過剰な外交的配慮を排し、歴史学者らの「研究」にゆだねるべき性格のものだ。

 その「研究」の結果、やはり強制連行の事実が見つからないのであれば、河野談話は見直されるべきである。

(2006年10月31日2時9分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061030ig90.htm

 従軍慰安婦問題に関する河野談話について研究の必要性を指摘した下村博文官房副長官の発言ですが、「この発言のどこが問題だと言うのだろうか。」と主張する読売社説なのであります。

 ポイントはここ。

 元慰安婦への「お詫(わ)びと反省の気持ち」を表明した河野談話は、その前提となる事実認定で、旧日本軍や官憲による「強制連行」があったことを認める記述となっている。韓国政府から「日本政府は強制連行だったと認めよ」と迫られ、十分な調査もせずに閣議決定された。

 慰安婦問題は、一部全国紙が勤労動員制度である「女子挺身(ていしん)隊」を“慰安婦狩り”だったと虚報したことが発端だ。慰安婦狩りをやったと“自白”した日本人も現れたが、これも作り話だった。政府の調査でも、強制連行を示す直接の資料はついに見つからなかった。

 河野談話が、「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチより、「反日」世論に激した韓国への過剰な外交的配慮を優先した産物だったのは明らかである。そうした経緯を踏まえ、下村氏は「研究」の必要性を指摘しただけだ。

 そもそもこの従軍慰安婦強制連行問題は、「一部全国紙が勤労動員制度である「女子挺身(ていしん)隊」を“慰安婦狩り”だったと虚報したことが発端」であるとして朝日新聞を批判した上で、「慰安婦狩りをやったと“自白”した日本人も現れたが、これも作り話」とし、「政府の調査でも、強制連行を示す直接の資料はついに見つからなかった」わけで、「河野談話が、「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチより、「反日」世論に激した韓国への過剰な外交的配慮を優先した産物」なのは明白であるとしています。

 その上で、

 河野談話の「継承」を表明した首相も、「狭義の強制性」との表現を使い、強制連行は「今に至っても事実を裏付けるものは出ていない」と指摘している。下村氏の発言は首相の答弁と矛盾しない。

 としています。

 つまり従軍慰安婦強制連行問題においては、当時の時代背景から、悪徳業者が介在した娘売りや詐欺まがいの連行に近い「広義」の強制性はあったかも知れないが、日本軍や政府が直接関与した「狭義」の強制性を裏付ける事実は出ていない、という主張なのでしょう。

 この場合の「広義」と「狭義」の基準は、日本軍・日本政府が直接関与した「強制連行」があったかどうかで分けられて使用されているようです。

 ・・・

 読売社説の結語。

 大事なのは事実である。

 軍や官憲による強制連行はあったか、なかったか――。政治的な思惑や過剰な外交的配慮を排し、歴史学者らの「研究」にゆだねるべき性格のものだ。

 その「研究」の結果、やはり強制連行の事実が見つからないのであれば、河野談話は見直されるべきである。

 大切なのは「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチにより実証される事実であることは全く異論ありません。

 本件に関する「虚報記事」を掲載した張本人とも言える朝日新聞は今だ、いっさいの記事訂正も謝罪も行っていないことは周知のことですが、ことが当時の外交問題まで発展したことや今現在まで根強く国際的批判にさらされていることを考えると、朝日新聞のメディアとしての責任は厳しく問われて当然でしょう。

先月には米下院の国際関係委員会にて日本にたいし極めて厳しい従軍慰安婦動員に関する決議案(下院第759号決議案)が可決したのも、当ブログとして取り上げたのでありまして記憶に新しいのであります。

(前略)

 今回米下院の国際関係委員会で審議し可決された決議案は、日本による第2次世界大戦中の従軍慰安婦動員に関する決議案(下院第759号決議案)であります。

 同決議案は民主党のレイン・エバンズ議員が中心となって4月に提出したものでありまして、日本政府に以下の4点を求めているものです。

(1) Formally acknowledge and accept full responsibility of its sexual enslavement of those known as "comfort women.".

(2) Educate current and future generations about historical truth, including past crimes against humanity.

(3) Publicly, strongly, repeatedly refute that the comfort women tragedy did not happen.

(4) Follow Amnesty International and United Nations’ recommendations with respect to the comfort women tragedy.

(1)従軍慰安婦動員の事実と責任を認める

(2)従軍慰安婦問題が人権に反する問題であることを現在および次世代の日本国民に教育する

(3)慰安婦を否認するいかなる主張に対しても公に強く反論する

(4)国連やアムネスティ・インターナショナル慰安婦関連勧告を履行する

(後略)

■[国際]米下院外交委員会歴史公聴会〜ロビー活動としては明らかに日本の敗北 より引用
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060918/1158572391

 ・・・

 さて、読売社説の主張「問題の核心は『強制連行』の有無だ」にはまったく異論ないのであり、ぜひとも「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチにより実証していただき、国際的に誤解されている内容があるならば、日本政府として堂々と主張を展開してもらいたいと思います。



●「広い意味でいじめ」とか「狭義の強制連行」とか〜元の言葉に強烈な負のイメージがつきまとう場合「広義」や「狭義」のカテゴリー分けは上手な表現方法ではない

 さて、本エントリーで論じたいのは、従軍慰安婦問題の真贋論争ではありません。

 「広義」と「狭義」の使い方であります。

 「広義」か「狭義」かを論じる議論そのものの持つ限界というか「あやうさ」に関してであります。

 かたや事実の検証もろくにせず「(1)従軍慰安婦動員の事実と責任を認める」ことを日本政府に求めている米下院で可決された決議案にたいし、日本国内で内向きに「強制連行」が「広義」か「狭義」を論じる議論はどのくらい説得力があるのでしょうか。

 方法論としては弱いといわざるを得ません。

 一般には、その意味も言葉の定義も負のイメージがつきまとうような元の言葉に、ある基準で「広義」と「狭義」に分けて論じる場合、元の言葉自体は「真」であるといった短絡的な印象を与えがちです。

 日本軍の従軍慰安婦の「強制連行」に関して先入観として非人道的なイメージしか持っていない人々に、「広義」としてはともかく「狭義」としては「強制連行」は「偽」であるといった論法は、それがいかに「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチであったとしても、一部とはいえ「強制連行」を「真」と認めている点で、議論の方法論としては弱いといわざるを得ません。

 阿倍首相や日本政府は「狭義の強制性」はなかったなどと弱い論法ではなく、「客観的」な資料に基づく社会「科学的」アプローチによる実証をして、日本政府・日本軍による直接の「強制性」はなかったと、明確に否定すべきではないでしょうか。

 ・・・

 「狭義の強制性」とか「広義の強制性」などというカテゴリー分けは、「強制性」そのものは否定していない点で、国内はともかく国際的にはときに説得力に欠く脆弱な表現方法であることを認識していただきたいです。

 ・・・

 「いじめ」しかり、「強制連行」しかり、元の言葉に強烈な負のイメージがつきまとう場合、「広義」とか「狭義」とかを表現すること自体、その真摯な意図とは別に、ときに第三者の心に安直に負の印象をすりこんでしまう危険がつねにつきまとうのです。



(木走まさみず)