良い謝罪文作成は人を成長させる仮説〜朝日新聞の返事を読んでの一考察
以下のエントリーの追記です。
「寸鉄人を刺す」のもいいが、朝日はとっとと浦安市に謝罪すべきじゃないのか
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060113/1137143464
●これって反論なの謝罪文なの???
愛さんのところ経由で朝日新聞が浦安市役所に返事の手紙を出したことを知りました。
愛・蔵太の気ままな日記
■[報道]朝日新聞が「ネズミ踊り」の件で浦安市役所に返事の手紙を出した様子
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060119#p1
で、浦安市役所ホームページに掲載されている朝日新聞社からの回答文はこちら。
1月12日、朝日新聞東京本社に対し、浦安市及び浦安市教育委員会は、朝日新聞1月10日夕刊記事「素粒子」に対する抗議書を提出しました。
これに対して、1月16日付けで、朝日新聞社から、広報部長名で、浦安市長及び教育長あてに回答がありましたので、お知らせします。
- -
2006年1月16日
浦安市長 松崎秀樹様
朝日新聞社広報部長 両角晃一
冠省
1月10日付の夕刊記事「素粒子」について、1月12日付で弊社社長あてにいただいた「抗議書」に対して、対外的な応対の責任者である当職から回答させていただきます。
「素粒子」というのは、世間一般の出来事など森羅万象を題材とし、短い文章で自由な批評を加えるというコラムです。
浦安市の成人式についての批評も、当日の朝刊に掲載された記事やテレビ報道などを見て、筆者が感じたところを短文につづったものです。当該コラムは、決して浦安市の新成人を中傷することを意図したものではありません。
いずれにしましても、この度、式についての市長、教育長のお考えは十分承知いたしました。ご意見は真摯に受け止め、今後の参考にしていきたいと思います。
以上、簡単ではありますが回答とさせていただきます。草々
朝日新聞「素粒子」についての本市の抗議書に対し、朝日新聞社から回答がありました
http://www.city.urayasu.chiba.jp/a100/b001/d00500887.html
うーん、なんでしょう、これって反論なの?謝罪文なの?
どっちにもなっていないですよねえ。
で、愛さんの指摘がとってもステキなのであります。
「謝罪」的な記述はどこにもないみたいです。朝日新聞という会社(企業)は謝罪のしかたをあまりよく知らないのかな、と思いました。
しょうがないので朝日新聞のために、以下のところを参考に、「謝罪のサンプル」みたいなものを作ってみます。
(以下略)
愛・蔵太の気ままな日記
■[報道]朝日新聞が「ネズミ踊り」の件で浦安市役所に返事の手紙を出した様子
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060119#p1
ウフフフ、是非「謝罪のサンプル」はあちらをお読みいただきたいのですが、直子の代筆などを使って親切に朝日新聞のために謝罪文の例を示して差し上げているのですが、ちょっとダメダメ(ごめんなさい愛さん)で、とっても愛さんらしいウィットにとんだ素敵な「サンプル」なのでした。
・・・
しかしなあ、前回当ブログで私は以下のように予言いたしましたが、
しかし、「批判」と「誹謗・中傷」は全く別次元であることはここではっきりさせておきたいと思います。
「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んでるようじゃ、この先思いやられる」
「浦安」と場所も特定しているのに「成人式についての一つの見方を示したもの」とはお笑いモノの言い草であり、全国紙の一面コラムでこき下ろされた浦安市とその新成人諸君にしてみればこれは誹謗・中傷以外のなにものでもないのであります。
ここで重要なことは市側の主張、「成人式はTDLの協力を得て市長や議長のあいさつなど粛々と進められた。記事は式典前後に行われたショータイム(計5分)のみを捉えたもので、正確で公正な記事とはいえない」にあるとおり、式全体を筆者の河谷史夫氏が把握して書いたのか、はなはだ疑わしい点です。
「早朝から自らを奮い立たせ、パソコンの画面に集中し」すぎていて、うわべだけの著者の脳内イメージのみを「寸鉄人を刺す」勢いで安直に記述したのではないのですか?
もしこのような記述が、これは一般的な「批判」であり、「誹謗・中傷」には当たらないと朝日が考えているならば、すみやかに、たしかに「浦安の新成人」達が「遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んで」いた事実を示し、メディアとして反論しなければなりません。式全体でたかだか5分のミッキーショウの比重がそんなに重いとは思えませんが、筆者を持って「この先思いやられる」と判断した根拠を明確に示すべきです。
・・・
当ブログで予言いたしましょう。
朝日はこの件で絶対反論はしないでしょう。うやむやに穏便に事をすませるべくはかっていくでしょう。
(後略)
なんだかなあ、これははっきりひどい中傷めいた言葉だからさすがの朝日も謝罪はするんじゃないのかと思って、謝罪の可能性には含みをもたせつつ「朝日はこの件で絶対反論はしないでしょう。うやむやに穏便に事をすませるべくはかっていくでしょう。」と予言したのですが、うーん、たしかにこの朝日の回答文は「反論しない」で「うやむやに穏便に事をすませるべく」見事な文章なのではありますが、謝罪にもなっていないよなあ。
・・・
しかし、朝日新聞社広報部長の両角晃一氏のこの文章ですが、「素粒子」担当の論説委員の河谷史夫氏の「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んでるようじゃ、この先思いやられる」に対し、「当該コラムは、決して浦安市の新成人を中傷することを意図したものではありません。」などとおっしゃっていますが「中傷することを意図」していないなら、どのような意図で書かれたのか是非うかがいたかったなあ。
・・・
まあこれは「中傷」表現に対する、朝日と一般読者の認識のちがいなのでしょうかねえ。
・・・
不肖・木走は、人に謝罪をするというのは、心理的につらく苦しく辛抱の必要な行為であることはよく理解しているつもりです。
朝日新聞社広報部長の両角晃一氏も、いくら広報担当という職業上の立場とはいえ、同じ会社の人間の書いたモノではあっても他人の書いたことで謝罪するのはしんどいことなんでしょう。(←あ、謝罪はしてないか(汗))
●ああ、今思い出してもつらいのであります(涙
不肖・木走は零細IT企業を経営しておりますので、立場上謝罪文も抗議文も何回も書く羽目を経験して参りました。
抗議文などはまだ精神衛生上問題はそれほどないのですが、謝罪文はビジネス上のこととはいえこれはかなり精神的にきついのであります。
読者のみなさまにも仕事上謝罪文を書かれた経験のある方はご理解いただけると思うのですが、謝罪文という性質上、100%己の主張を殺して謝罪する相手の立場に立った誠意のある文章を心掛けなければならないわけです。
これがしんどいのです。
自分のミスで謝罪する場合でもしんどいのですが、立場上自分の部下のしでかした失敗などで謝罪文を書く場合などは、まさに人間性の鍛錬というか修行なのじゃないかと思うぐらい、自分を殺して心より謝罪する文章を作成することは、人間のできていない私などのような心せまい俗物には苦行なのであります(苦笑
頭の中は走馬燈のようにいろいろな雑念がめぐりめくのでありますよ。
なんでオレがあんな嫌なやつに謝罪しなけりゃいけないんだ、むこうだって非があるだろうが。。。
なんでオレがこんなバカな部下のために謝罪しなけりゃいけないんだ、ああオレは世界一不幸な上司だ。。。
もう、心臓はバクバク胃はキリキリでありまして、そのような情緒不安定な状態にも関わらず、謝罪文を書く必要になるときは決まって一日を急いで先方に謝罪文を送りお詫びしなければならない状況なのが常なのでありますよね。
じっくり文章を推敲する心理的余裕も時間的余裕もない窮地に立たされるのでございます。
ああ、今思い出してもつらいのであります(涙
・・・
●良い謝罪文作成は人を成長させる by 不肖・木走
まあ零細企業の経営者などは「人に謝るのが仕事」みたいなところがあります。
で、私は謝罪文を何度か作成するうちに自分なりの「良い謝罪文の作成テク」をいつしか身につけました。
ちょっとご披露しましょう。
■テク1:邪念を捨てる〜悪いのは100%私だと心より覚悟する
どうせ謝罪文を書くことを決意したならば中途半端な決意では文章に誠意がこもりません。
そこで心を鬼にして(私だって悪くないとこもある)とか(先方にだって落ち度はあるじゃないか)といった邪念を一切捨てきります。
この件で悪いのは100%自分であると言い聞かせます。
人の世の厄介な点は、実は人様に謝らなければならない羽目になったときでも、こちら側にも何分かの正当な言い分があり、先方にも何分かの指摘し得るような問題点があるモノであります。
しかし、そんな邪念をもっていたらいつまでも誠意ある謝罪文を作成することなどできないわけであります。
■テク2:先方の目線で自分の悪いところを批判する。
テク1で邪念を捨てたなら、出来る限り冷静な自分を取り戻した上で、先方の視線にたって、謝罪しなければならない内容を考えてみます。
なぜ相手が私を怒っているのか、自分が相手の立場だったらどう感じるか、冷静に分析します。
そして、ここが重要なのですが、たしかに失礼な謝らなければいけない振る舞いをしてしまったことを、心から自覚し反省します。
そしてウソ偽りのない素直な気持ちとして心からの謝罪の文をしたためます。
■テク3:建設的な改善策を提示する。
自分が今回の失敗で得た教訓を冷静に考えます。
そして、二度とこのような間違いをしないようにするために、自分としてできる改善策を建設的に相手に示し、そのように努力していくことを誠意を持って約束します。
ここでも重要なのは心から失敗から得た教訓を納得していなければ文章自体に誠意はこもらないことです。
うわべだけの反省など相手は何も望んではいないからです。
・・・
もちろんいつもうまく謝罪文が書けたわけでもなく、ときに余分なことを書いてしまいかえって相手の反発をもらってしまったこともあります。
ただ、出来の悪い私が実感するのは、相手からも一定の評価をいただけたような「良い謝罪文」が作成できたときは、不思議と自分自身も精神的に成長できたような気がするのでした。
「謝罪するという行為」は、ときに人を成長させるのではないでしょうか。
・・・
●朝日新聞がダメなのは、めったに謝罪をしないのでメディアとして成長していないからではないか仮説
ここまで書いてきてとふと仮説を思いつきました。
朝日新聞がダメなのは、めったに謝罪をしないのでメディアとして成長していないからではないか・・・
零細企業のオヤジの仕事上の謝罪文と、天下の公器たる朝日新聞の公開謝罪文を同列に扱うなどとはおこがましいことなのです。(苦笑)
しかし、せんないことをどうこう言っても仕方ないですが、あやまるべきはきっぱりあやまる、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」その精神こそ、今回の朝日新聞に必要なのではないのかと思うのでした。
今回の件で、朝日新聞の人たちは「人様に頭を下げる」行為を敗北としてしか理解していないのか、本当に「人様に頭を下げる」必要はないと信じているのか、私には知る由もありません。
・・・
ふう。
私などは「良い謝罪文作成は謝罪する人を成長させる」ものだと思うのですが、今回の朝日新聞の対応はその意味でとても残念なことだと感じましたです。
(木走まさみず)