木走日記

場末の時事評論

人は誰しも伸び縮みする『心の垣根』を持っている

kibashiri2005-10-16


 いつもメディア記事を遡上に乗せ好き勝手に批判エントリーしている当ブログでありますが、今回は、記事引用無しであります。

 先日、ある方からメールにて特定の政治的活動に対する支持の依頼がきました。私にはブログを通じてそのような特定の政治的活動をするつもりは毛頭ないので、丁寧にお断りをしました。

 当『木走日記』のスタンスは、あらゆる権力や組織から優柔不断(苦笑)でありたいと思っており、あくまでも一般の大衆と同じ視線で右往左往しながらも、読者のみなさんとともに多様な事象に偏見なく議論して参りたいと願っております。

 なぜ政治的スタンスは自由きままでありたいと思うのか、少しお話ししたいと思いました。



●誰しも伸び縮みする『心の垣根』を持っている

 母校の高校のバスケット部の練習試合を見てきました。いきさつはまあビデオ撮影係りとしてお鉢が回ってきてしまったのですが、いや高校のバスケの試合など全く興味なかったのですが、その熱心さ真剣さに意外にも感動を覚えてしまいました。

 若い人達が汗をかきながら一生懸命、純粋にチームの勝利のためにプレイする姿を見て、思わず練習試合なのに応援してしまいました。

 まあ、私などスポーツとはほとんど無縁な人生を送ってきたのですが、がんばっている後輩達を見ながら、今時の高校生達もまんざら捨てたモノではないなあと妙に感心したのでた。

 で、最近は娘の小学校の運動会ぐらいしかスポーツ(しかも撮影係)と関わりがなかった私なのですが、ちょっとこの『愛校心』とか考えてしまいました。

 このスポーツの試合などで盲目的に自校を応援する心理なのですが、やはりこれはパトリオティズム愛国心に酷似しているなあと、改めて思うのです。

 もちろん、私は心理学者でも哲学者でもましてや政治学者でもありませんので、以下はあくまでも不肖・木走の個人的なおもったままの考察であります。

 うーん、考えてみれば小学校の運動会では、赤組に所属すれば『赤勝て!』と願い、中学のクラス対抗リレーでは自分の所属するクラスを応援したわけで、この『愛校心』というヤツも、たまたま『自分の所属するグループを愛する心』が学校単位で明確化する場合だけの、たとえば学校対抗のスポーツの試合などで発現するだけなのかも知れません。

 現に全国大会では、例えば夏の甲子園ではみなさんやはり自然に自分の出身地の都道府県の高校を応援したりするのであり、これは『郷土愛』とでも形容すればよろしいのかよくわかりませんが、『自分の所属するグループ』は少し広がり行政単位と拡大いたしてます。

 もっと国際的になれば、オリンピックやサッカーワールドカップのように国単位の競技となれば、それこそ日本人なら『がんばれニッポン!!』と言う感じで、各国の人々はそれぞれ自国の旗を顔にペイントしたりしながらアツク応援するのですよね。

 考えてみれば興味深いですね。

 もしかしたら私達は誰でも心の中に自由自在に伸び縮みする可変の『垣根』を持っているのかもしれません。

 その心の垣根の内側が『自分の所属するグループ』であり、愛校心、郷土愛、愛国心などで表現される時の『愛すべき対象』なのであり、垣根の外側は、赤の他人というか、例えばスポーツなどでは、打倒すべき敵と映るわけです。

 で、この垣根がちょうど国家や民族と一致したところで強烈に固定化した場合、パトリオティズム愛国心』と呼ばれるわけですが、とたんにきな臭い香りが漂い始めるわけです。
 そう、純粋なパトリオティズム愛国心』の奥底から、ナショナリズム国家主義民族主義』が顔を出し始めることがあるからです。

ナショナリズム [nationalism]

一つの文化的共同体(国家・民族など)が、自己の統一・発展、他からの独立をめざす思想または運動。国家・民族の置かれている歴史的位置の多様性を反映して、国家主義民族主義国民主義などと訳される。

三省堂提供「大辞林 第二版」より

 注意いただきたいのは、『プチリベラルなナショナリスト(???)』を自認する木走としては、単純にナショナリズムを批判しようとする意志もあるいはリベラリズムを批判しようとする意志もありません。

 ただ、リベラルの人が好んで使う『世界市民』なる言葉を思い出すと、この心の『垣根』を一国家から、世界中を内包するぐらいに思いっきり拡げて考えてるのでしょう。しかし一部リベラルの人達が憎めないのは、心の『垣根』は妙にだだっ広いのに、小泉さんとか自国の政治家には急に心狭くなり狭量な批判を繰り返すところでしょうか(苦笑

 また小泉首相靖国参拝に対する一部アジア諸国(中国・韓国・北朝鮮)の批判に対し、いらだち反発する人々の心の『垣根』では、明らかに中国・韓国を『垣根』の外に出して考えているのでしょう。そして一部保守の人が困惑しているのは、心の『垣根』は妙にしっかり国家単位で閉じているのに、現実の貿易立国日本はますます近隣アジア諸国と密接な経済関係を成してきている現実でしょうか。

 ・・・

 私はウヨクとかサヨクでカテゴライズすることは好みません。

 が、私自身が対峙する事象によりこの心の『垣根』が伸びたり縮んだりしていることを強く自覚していますので、もしかしたら、ウヨクやサヨクといったイデオロギーも小難しい理論ではなく、この心の垣根の内側を『自分の所属するグループ』と見なし『愛すべき対象』と見なす、人間の持つ本能的心理と関係があるのかも知れません。



●ウヨクは、サヨクは『自分の所属するグループ』を『愛せない』と考える

 私には中学生の時、とても苦い経験があります。

 中学2年生の時、私は自分のクラスが大嫌いでそれが原因で自分の学校にも愛着がもてませんでした。クラスが大嫌いになった理由はそれこそ些末なことで気に入らないヤツが主導権を握っていて、ことあるごとに私は彼に逆らい気付けば私はクラスの中で少数派になってしまっていたからです。

 彼はいわゆる万能秀才タイプで成績も優秀、運動神経も抜群、クラス委員にも推薦され、家もお金持ちのボンボンでありました。

 不肖・木走はといえば商店街出身で成績も運動も中途半端で、彼とは何もかも逆でじみな存在なのでしたが、何故か私はクラスの人気者である彼と全く馬が合わず、ことあるごとにぶつかっていました。

 理由は今でもよくわかりませんが、クラスの人気者である彼に逆らってばかりの私は徐々にクラスの中で浮いてしまい、私の周りからは友人が一人さり二人さりして、最後には孤立してしまいました。

 その状態は3年生になりクラス替えになるまで半年続いたのでした。

 当時の私はクラスに対する愛情などありませんでした。確かに『自分の所属するグループ』であることは自覚していましたが、『愛すべき対象』というよりも、『憎むべき対象』であり『改革しなければならない対象』でしかなかったのです。

 今にして想えば、プチリベラリスト『木走』の誕生であります(爆笑

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 冗談はさておき、おそらくサヨクな人が、心の『垣根』は世界市民的に妙にだだっ広いのに、小泉さんとか自国の政治家には急に心狭くなり狭量な批判を繰り返すのは、私には理解できます。

 人間は、もしかすると『自分の所属するグループ』を『愛すべき対象』と見なせない場合、心の垣根は急拡大するか急縮小して『愛すべき対象』に当てはまる範囲を懸命に探し出すのではないでしょうか。

 中学2年生の時の木走も、クラスも学校も大嫌いになり、心の中にふたつのカテゴリーを作ることで心のバランスを維持するように努めました。

 ひとつは、物心ついた頃からともに遊んだ『商店街の子供グループ』です。
 もうひとつは、高校進学への勉強に情熱をそそぐことを誓いました。地元の中学校などという狭い垣根を無視する方法は、当時の私にはあこがれの私立高校に進学することしか思い浮かばなかったわけです。



サヨクは、ウヨクが『偏狭で排他主義』だと考える

 『心の垣根論』(←いつから理論になったんだよ(苦笑))で考えると、私にはウヨクの心情もよく理解できます。

 私立の男子校に進学した私の高校3年間は、中学の時とうって変わり、それこそ充実した3年間でありました。

 決して真面目な生徒ではありませんでしたし、根っからの中途半端な性格も手伝って、勉強もスポーツもいい加減なのはいい加減なのでしたが、学園祭行事や部活動にもそれなりに積極的に参加していました。

 3年生のとき、実行委員長として臨んだ最後の学園祭で事件は起こりました。

 学園祭まであと2日とせまり、他のみんなと夜遅くまで準備をしていた時、一部のグループが無断で準備をさぼり、遊びに行ってしまったのです。

 次の日、私はさぼったグループの数人を呼び出し問いつめました。

 その時彼らの一人がこう開き直り言い返してきました。

 『別にやりたいやつがやればいいじゃないか』

 その言葉を聞いて私はきれて、とっくみあいの喧嘩をしてしまいました。

 私は、実行委員長としての責任感もあったのでしょうが、みんなが苦労して一生懸命準備をしているのに、協力しようとしない彼らの無責任な行動が許せなかったのです。

 当時の私の心情としては、充実した3年間を送ったこの高校にものすごく愛着があったのだろうと思います。

 愛すべき学校の最後の学園祭を充実させみんなで素敵な想い出を残せたら素晴らしいと考えていたのだと思います。

 それなのに、学校の行事になんの愛着もない協力もしない彼らの反抗的な姿勢が許されなかったのです。

 当時の高校3年生の私には学園祭という目的の前では、完全に心の『垣根』は母校に固定化されていました。

 今にして想えば、ナショナリスト『木走』の誕生であります(爆笑

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 冗談はさておき、おそらくウヨクな人が、自国のことは無責任に批判するのに心の『垣根』は世界市民的に妙にだだっ広いサヨクな人達を許せないのは、私には理解できます。

 心の垣根をしっかり持っていて、この心の垣根の内側の『自分の所属するグループ』に対し、責任を持ち『愛すべき対象』と見なそうとする人々には、『自分の所属するグループ』を批判する人々をどうしても『無責任』と感じてしまう傾向があるのではないでしょうか。

 対してサヨクな人は、そのようなウヨクの限定した特定の対象だけに愛をそそぐ行為に、狭量さと排他主義を感じてしまうのではないでしょうか。



●私がメディアリテラシーが好きな理由〜ウヨもサヨもない世界

 現在のオヤジ木走は、最初にも話しましたが、ウヨクとかサヨクでカテゴライズすることは好みません。

 少なくても私には、かつて私自身が対峙する事象によりこの心の『垣根』が伸びたり縮んだりしていることを強く自覚してきましたので、ウヨクとかサヨクとかの概念が絶対的に不変不動の行動原理には思えないのです。

 たとえば、中国や韓国・北朝鮮との冷え切った外交問題を考えるとき、南シナ海のガス田や竹島問題など領土が絡むと、私は彼の国達に批判的に対峙することが多く、その時中国や韓国は明らかに私の心の『垣根』の外にあります。

 また日常で中国人の友人や韓国人の友人と接するとき、彼らは明らかに私の心の『垣根』の内側に存在し、愛すべき人々なのであります。

 もしかしたら、大抵の人間は時と場合により、ウヨク的になったりサヨク的になったりしながら、柔軟に心の『垣根』を調整しながら生きているのではないでしょうか?

 私には、大多数の人にとって、ウヨとかサヨとかのレッテル張りは意味がないような気がするのです。

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 今の私は、左右問わず凝り固まった思想には距離を置く習性を持っています。

 そのような『大義の信者』に陥るのではなく、メディアリテラシー論にも通じるのですが、科学的論理的思考による『真理の探究者』でありたいと願っています。

 前回のエントリーで野田聖子氏と自民党県連の批判をいたしましたが、少し断定的な批判だったのかもしれません。

 このような特定の個人や集団に対し批判的評価を下した場合、いつも私は自問自答するように心掛けています。

 この膨大な情報が溢れかえっている現代において、正確な報道を求め事実の検証を怠ることなくしっかりメディアをリテラシーして評価することはとても重要なことだと思っていますが、と同時に自分の評価に対し絶えず批判的に対峙しなければ、真のメディアリテラシーにもならないと考えています。

 なぜならば自分の下した評価にも絶えず厳しく検証し決して早急にひとつの考え方に自らを固定してはいけないのは当然のことと考えているからであり、人間は何人たりとて神様ではないのですから、誤った判断をしてしまう可能性を有していると思うからです。

 ・・・

 人は誰しも伸び縮みする『心の垣根』を持っているのだと思います。

 そしてその垣根が時と共に事象と共に伸縮自在に変化することは、私には人間として極めて健全なことであり、優柔不断で一貫性がないというマイナス面よりも、多層で複雑な事象を単純化して捉えないためには必要なことに思えるのです。

 大切なことは、各人が持つ『心の垣根』は絶対的なものではないこと、自分とは相容れない多様な価値観を認め自己の認識も有限の狭い視野に陥っていることを強く自覚することです。

 絶対的に『垣根』を固定化してしまうのは危険であるとも言えるのでしょう。

 自説を曲げず断定的議論に終始する『大義の信者』に陥ることだけはないように今後も努めてまいりたいと考えています。

 読者のみなさまはいかがお考えでしょうか?



(木走まさみず)