木走日記

場末の時事評論

戦艦大和の最後までつまらない論争になるこの国のメディアの憂うべき検証能力

 当「木走日記」は、別にミリタリー(軍事)オタクブログでも何でもないのですが、最近靖国参拝問題関連で旧日本軍の特攻隊員生き残りの方々のエントリーをしてまいりました。

●英タイムスが報じたカミカゼパイロット美談
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050607/1118148066
●「人間爆弾」桜花からの生還〜「出撃した日は、桜が満開でした」
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050610/1118395443

 神風特別攻撃隊、「人間爆弾」桜花とエントリーを続けたのですが、まあ、戦争の悲惨さを浮き彫りにするリアルな記事内容と不肖・木走のコメントを巡り当ブログコメント欄でも熱い論争がなされてたわけでありますが、最も大規模な特攻と言えば3000余人の尊い命とともに海に沈んだ「戦艦大和」であります。



戦艦大和の航跡訪ねるクルージング

 今日の朝日新聞鹿児島県版から・・・

戦艦大和の航跡訪ねる船、谷山港に

 戦艦「大和」と第二艦隊の航跡を巡るクルージング船「ふじ丸」が19日早朝、鹿児島市南栄4丁目の谷山港に寄港し、歓迎セレモニーが同船内であった。地元を代表して市商工観光部の成清次男部長が歓迎のあいさつをした後、花束贈呈や記念品の交換などをした。

 同船は17日夕、広島県呉市川原石港を出港、同艦隊が沈んだ鹿児島・坊ノ岬沖へ向かい、18日午後5時から洋上追悼式をした。式には全国から集まった355人の乗客うち希望者が参加した。

 追悼式では、献花に加え酒など戦死した兵士らの好物を海にまいた人もいたという。横浜市から参加した戸田文男さん(78)は当時、海軍に志願し戦艦大和に乗っていたが、1945年2月、砲術学校へ3カ月間訓練に行くため、たまたま船を下りた。入れ替わりに入った兵士は2カ月後に、戦艦大和と運命を共にしたという。

 戸田さんは、戦後60年目にして今回初めて海没地を訪れた。「手旗信号で『海軍水兵長戸田文男、ただ今参りました。永久(と・わ)に安らかなれ』とあいさつしました。戦友たちも喜んでいると思います」

 クルージングを企画したのは広島県呉市、新広島トラベル代表の藤本哲智さん(49)。「戦艦大和が沈んだ場所は遠いので、追悼に行くことができた人は少ないのでは」と思ったのが発端だったという。

 参加者らは午前中、知覧町知覧特攻平和会館などを訪れた後、同日午後、帰途についた。

(6/19) 朝日新聞 鹿児島版
http://mytown.asahi.com/kagoshima/news02.asp?kiji=4801

 戸田さんの発言、「手旗信号で『海軍水兵長戸田文男、ただ今参りました。永久(と・わ)に安らかなれ』とあいさつしました。戦友たちも喜んでいると思います」、やはり重いですね。



●朝日天声人語における戦艦大和の小説の引用部を批判する産経記事

 今日の産経記事から・・・

吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き
救助艇指揮官「事実無根」


 戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。

 『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。

 この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。

 これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。

 その理由として(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した。

 松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。

 松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。

 しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。

 戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。

 松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。

                  ◇

 『戦艦大和ノ最期』 戦記文学の傑作として繰り返し紹介され、ほぼ漢字と片仮名だけの文語体にもかかわらず、現在出版されている講談社文芸文庫版は10年余で24刷を重ねる。英訳のほか市川崑氏がドラマ化、朗読劇にもなった。昭和21年に雑誌掲載予定だった原文は、連合国軍総司令部(GHQ)参謀2部の検閲で「軍国主義的」と発禁処分を受けたため、吉田満氏が改稿して27年に出版したところ「戦争肯定の文学」と批判された。現在流布しているのはこの改稿版を下敷きにしたもの。原文は米メリーランド大プランゲ文庫で故江藤淳氏が発掘し、56年刊の自著『落葉の掃き寄せ』(文芸春秋)などに収めている。

平成17(2005)年6月20日[月] 産経新聞
http://www.sankei.co.jp/news/050620/morning/20iti001.htm

 なんなんでしょう、この記事は。朝日の天声人語はどのような記述なのでしょうか?



●問題の朝日の天声人語

 で、問題の朝日の天声人語ですが、今回は、天声人語を中国語訳している興味深いサイトから引用させていただきましょう。

2005年4月7日(木)    天声人語

在“战舰大和”出击冲绳的那一天,吉田満少尉准备好了遗书。“请把我的东西全部处理掉。祝大家身体健康、并请多多保重”。
第二天,也就是1945年、昭和20年4月7日,大和在九州海上受到美军飞机的猛攻而沉没了。这艘巨型军舰是日本和列强军火竞赛的象征,它的末日象征着日本军国主义的败北。
奇迹般地生存下来的吉田先生在战争结束后不久写的《战舰大和的末日》,记录了原委。这本书超越时空地被广泛阅读。一位刚刚大学毕业的青年的记述,现在读起来也给人以冲击。
“当时‘大和’几乎倾斜到90度……毫无保护的红色船腹几乎露出海面……巨大的火柱直插入夜空 ………战舰的全部碎片飞向空中”。吉田在漂流中抓住了一架绳梯获救。
在载满了漂流者的救生艇上有这样的事情。“攀在船边的手越来越多,力量也越来越大 ……救生艇的指挥官和下级船员们用战刀鞘驱褰手臂,啪、啪地打着密密麻麻地伸出的胳膊和手腕上……就像墨鱼无可奈何地自断其臂,他们的面孔,他们的目光,他们的眼神,我终生难忘”。
吉田先生战后进入日本银行,担任了分行行长和监事。看了《吉田満集著作》的年谱,会发现在详细的记述间,那个4月被如此记录:“参加冲绳特攻作战。 生还。”在参加和生还间没有1个字。但是,那文字间不知又有多少血肉横飞的战场呢?不仅仅是大和的末日,它令我想到了在所有的战场上出生入死、甚至被夺去生命的人的恸哭。

日本語原文:
戦艦大和が沖縄へ向けて出撃する日、吉田満少尉は遺書をしたためた。「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ 皆様マスマスオ元気デ、ドコマデモ生キ抜イテ下サイ」
その翌日、1945年、昭和20年4月7日、大和は九州沖で米軍機の猛襲を受け沈没した。世界の列強と競って建造した軍艦の象徴だった巨艦の最期は、軍国・日本の敗北をも象徴していた。
奇跡的に生き残った吉田氏が、終戦直後にてんまつを記した『戦艦大和ノ最期』は、時を超えて読み継がれてきた。大学を出たての青年の記述は、今も鮮烈だ。
「時ニ『大和』ノ傾斜、九十度ニナンナントス……アナヤ覆ラントシテ赤腹ヲアラハシ……火ノ巨柱ヲ暗天マ深ク突キ上ゲ……全艦ノ細片コトゴトク舞ヒ散ル」。漂流中、一本の縄ばしごをつかみ助け上げられた。
漂流者で満杯の救助艇では、こんなこともあったという。「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」
吉田氏は戦後日本銀行に入り、支店長や監事を務めた。『吉田満著作集』の年譜を見る。詳細な記述の中で、あの4月はこう記されている。「沖縄特攻作戦に参加。生還」。参加と生還の間に一文字もない。しかしその字間に、どれほどおびただしい修羅があったことか。大和の最期に限らず、あらゆる戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭(どうこく)を思った。

天声中国語さん4月7日エントリーより引用
http://fanyi.exblog.jp/

戦艦大和の最後までつまらない論争になるこの国のメディアの憂うべき検証能力

 いい加減、辟易してしまいます。『戦艦大和ノ最期』の記述が史実に基づいているのか、これは小説ではありますが、よもやいいかげんな根拠の無い描写をしたわけではありますまいが、

「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」

 これは事実なのでしょうか?

 論争になっている小説の問題箇所を「事実」として安易にコラムで引用する朝日新聞の感性にも、毎度のことながら呆れ返るのですが、天声人語の結語、

 しかしその字間に、どれほどおびただしい修羅があったことか。大和の最期に限らず、あらゆる戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭(どうこく)を思った。

 この言葉には木走としてとても共鳴を覚えるがゆえに余計、安直な引用にはやりきれないものがあります。

 産経新聞の記事にしても、当事者達の名誉回復のためにする記事という側面は十分に認めた上でですが、紙面にこれだけのスペースを取り、朝日新聞を糾弾するがごとくのこの記事構成は、決して誉められたものではありません。

 もちろん、メディアで報道される記事内容は徹底的に検証されるべきであります。

 しかし、真の問題は、揚げ足取り合戦に終始し、悲惨な戦艦大和の最後までつまらない論争対象としてしまうこの国の憂うべきメディアの検証能力にあるのかも知れません。

 特に今回の場合、朝日には徹底的な検証姿勢がない点で、産経の揚げ足取り記事よりはるかに罪が重いと言えるでしょう。

 読者のみなさまはいかが考えられますでしょうか?



(木走まさみず)



<関連テキスト>
●英タイムスが報じたカミカゼパイロット美談
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050607/1118148066
●「人間爆弾」桜花からの生還〜「出撃した日は、桜が満開でした」
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050610/1118395443