木走日記

場末の時事評論

「壁(システム)と卵(人間)の共生」〜村上春樹氏「壁と卵」スピーチからの一愚考

 47ニュースの【日本語全訳】村上春樹エルサレム賞」受賞スピーチより抜粋。

【日本語全訳】村上春樹エルサレム賞」受賞スピーチ

(前略)

 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。

 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?


 この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。

 
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。


 私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。

(中略)

 今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
 
 このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
 これが、私がお話ししたいすべてです。


(後略)

http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

 すでにネットでもいろいろなところで取り上げられている文章なのでありまして、この村上春樹さんのエルサレムスピーチでありますが「壁と卵」とは、もちろん、今回のイスラエルのガザ攻撃を暗喩しているのでありますが、さすがノーベル証候補と噂される世界的人気作家であります、美味い表現をいたします。

 村上氏は「私は常に卵側に立つ」、「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と、強者より弱者の立場に立つことを強調されています。

 この暗喩のひとつの解釈として「爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁」であり、「これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵」であるとおっしゃいます。

 そして「私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面して」おり、「その壁の名前は「システム」」であると続きます。

 「その壁の名前は「システム」」ですか。

 そうか「システム」は壁なのか、村上氏をして警戒すべき対象なのか。

 これは少し考えさせられました。

 村上氏は「小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせること」だと言い切ります。

 「壁と卵」というこの村上流二項対立風弱者擁護の暗喩は、それはそれで作家としての氏の姿勢を判りやすく表現したものでありましょう。

 少なからずの批判や反対を押してわざわざイスラエルの授賞式に参加した氏によるイスラエルのおこした今回のガザ攻撃への批判にもなっているのでしょう。

 ・・・

 で、ここからは村上氏のコメントをヒントにそこから「システム論」について少し愚考したいです。

 まあ「その壁の名前は「システム」」なんて表現されてしまうと、情報システム工学を学んできた一人のIT技術屋としては、ちょっと複雑なんでありますが(苦笑)、そか、私は「壁」を勉強し「壁」を開発してきたのか、なんてね。

 それはともかく、もちろん、この場合の「システム」とは、人間がこさえた「機械」や「組織」や「ルール」や「制度」の総称のような意味合いなんでしょう。

 ・・・

 システムは大きくは、自然の支配する非人工的なものと人間が生み出したものに大別できます。

 前者は宇宙全体を支配するミクロの単位で行き渡る物理学的力及びそこから派生し創出されているマクロ的現象、この宇宙の持つ性質そのものにより構成される人の介在を許さない普遍的「システム」であります。

 この「地球」という星が属する太陽系、太陽系が属する銀河系、数十億年の時の流れをかけたこれらの誕生経緯は、そして偶然にもこの「地球」に多様な生命体が進化・分化し花開き、現在にまでいたったことは、これ自体この宇宙の性質がもたらしたすばらしいある種の「秩序」、つまり「システム」であるとも表現できましょう。

 対して後者・人工的「システム」は、「機械」「ネットワーク」「工場ラインシステム」などの人が作って利用する形態から、あるいは「会社」「共同体」「国家」「軍隊」など何らかの人が作った「おきて」(内規、法律、軍法、憲法など)にもとづき人を束ねる組織としての「システム」であります。

 宇宙を支配する普遍的「システム」に比し、当然ながらこの人工的「システム」のほうは、現生人類誕生までさかのぼるとしてもたかだかここ20万年です、人類が文明を持ち始めたころを今日的人工的「システム」の起源とすれば、たかだか数千年の歴史しかありません。

 そのわずか数千年のタイムスパンにおいて、つまり有史以来、我々人類は、ひとつは利用すべき道具としての「システム」を飛躍的に発展させてきたわけです、我々が毎日利用しているこの世界的規模の電子ネットワークである「インターネット」などが今日的道具としての「システム」の代表格でありますね。

 当然ながらこれらの道具としての「システム」は、すべて人工ですからどんなに技術的に進歩してきたとしても、たえず不完全なものであります、「インターネット」も例外ではありません、有史以来、我々は多くの「システム」を創造しそして失いまたあらたに創造してきたのです、恒久的で完璧な「システム」などは一度として作られなかったし、これからもそれは不可能でしょう。

 つまり人工的「システム」は創造者である人類の限界性をそのまま射影した「限界性」を有していてそれゆえに、全ての人工的「システム」は限界・寿命を持っていることは、歴史を振り返らなくとも自明なわけであります。

 道具としての「システム」と同様、「会社」「共同体」「国家」「軍隊」などの「組織」としての人工的「システム」もその掟(おきて)である「法」と、道具としての機械や兵器と、その両者の進歩とともに、やはり有史以来、何度も改良されときに改悪され、しかし結果として高度化されてきました。

 しかしこの組織としての「システム」も、それを「国家」としての単位で考察しただけでも、やはり人工的「システム」のもつ宿命、創造者である人類の限界性をそのまま射影した「限界性」を有してきたことは、かつてどんなに繁栄を極めた国家もただ一国としてその繁栄を恒久的に維持することに成功した国はない史実からも自明でしょう。

 またイスラエルだけではなく多くの「国家」は現在に至るまで残念ながら暴力性を放棄できていません、「「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始める」(村上氏)わけです。

 この面をとらえて「システム」を「高くて、固い壁」ととらえることはできるでしょう、ただしかし、人の作るつまり人工的「システム」というのはどんなに「高くて、固い壁」に見えても、実は完璧なものではない、それは脆弱性を内包しており、実はその脆弱性のひとつが「卵」への暴力装置として作動してしまうという視点も必要でしょう。

 そのような「システム」の問題点をしっかり修正していく構えを絶えず持ち続けることは放棄すべきではない、なぜなら村上氏も語っているように「「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくった」のであり、我々「卵」自身が「システム」を作り出したのだからです。

 ・・・

 ここでイスラエルパレスチナの問題にふれた村上スピーチに話は戻ります。

 「壁と卵」というこの村上流二項対立風弱者擁護の暗喩を、私は否定しません。

 限られた時間の中で限られた地域で起きている悲劇を、村上氏は正しく作家らしく自己表現したのだと思います。

 現実にガザの地でイスラエルが行った行為は、無垢の子供達も含めた多数の民間人犠牲者を出したわけで、その作戦の「非人道性」はこれから検証され、違法性が証明されるならば世界中で糾弾されることでしょう。 

 圧倒的軍事力「壁」でもって犠牲者「卵」を踏み潰したという暗喩は、確かにガザ攻撃におけるイスラエルパレスチナの圧倒的な軍事力の差、その一方的なふるまい、犠牲者数の非対称性、をうまく表現しています。

 「壁と卵」のようなわかりやすい二項対立による暗喩は、加害者と被害者、人工と自然、理性と感情、対称と非対称など、相反する項目の対立を浮かび上がらせるにはよい方法であります。

 そして、村上氏は、相反する項目の、どちらかを選択するのか? という問いかけに明確に弱者「卵」を選択したのです。

 ・・・

 次に村上氏は「われわれ」という言葉でイスラエルの聴衆に語りかけることで、人間はみな「卵」であると、「壁と卵」の問題を単に「イスラエルパレスチナ」に閉じずに全ての人類が普遍的に抱えている「システムと人間」の問題であると対象を拡大して語っています。

 このような一般論で「壁と卵」を語るとなると、私としては人工的「システム」一般を「卵」に対峙させてのみ語ることに多少の違和感を感じます。

 一般論まで拡大するとなると、「システム」「壁」自体も人「卵」の創造物であること、つまり「卵」(人)の作った「壁」・加害者もまた、「卵」・被害者でできている、という、単純な二項対立による斜述では表現できない一見矛盾するような事実が発生します。 

 たとえば、法治国家における法による統治はこれもひとつの人工的「システム」なのでありますが、現在の法律が完全ではないとしても、それを尊重しなければ社会秩序は崩壊いたします。

 法治国家という「システム」「壁」が、市民「卵」に対し、暴力性を帯びていることを認めるとしても、それは絶えず監視され補完されるべき不完全なしろものであっても、それでもなお、現在の我々には法治「システム」が必要なわけです。

 ・・・

 私は村上氏の勇気ある発言を敬意をもって肯定しながら、一人のエンジニアとして補足したい。

 それは「壁」なるものの実態が人工的「システム」である限り、そしてその「システム」が人間社会の秩序を維持するために必要悪である限り、短期的にはどちらかを選択する場面もあることは認めつつ、できれば未来志向で止揚して考えていきたい、つまり、俯瞰的な観点から統合的に問題解決を図るには、「システム」を改良しつつ、それと人間との共生を考えていきたい。

 インターネットのような道具であれ、会社や国家や軍隊のような組織であれ、「卵」が作った人工的「システム」をいかに冷酷な「壁」にしないか、それこそが我々「卵」に課せられた共通の課題だと思ったのであります。

 不完全な我々が創造した不完全な「システム」を我々に対峙する悪魔のような強者的存在にしない努力が必要です。

 ゴールはみえなくとも我々は絶え間なく、システムと人間の共生を目指すべきなのでしょう。

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 今日は村上春樹氏「エルサレム賞」受賞スピーチ「壁と卵」からの一愚考でありました。



(木走まさみず)